沖縄医介輔班


1.活動目的

戦後沖縄の医療史,時代背景を踏まえ,医介輔の役割、意義について考察する。

2.参加者

 熱帯医学研究会 部員6名
 学外参加者 学生2名

3.活動概要

8月22日 石垣市集団検診見学
      石垣市保健婦活動見学
  23日 八重山保健所学生実習
       八重山平和記念館見学
  24日 八重山病院見学
       宮良眼科医院訪問
  25日 竹富町立竹富診療所訪問
       西表島 山城ヒロ子さん宅訪問
  28日 仲里村美崎診療所見学 (天候により中止)
  29日 琉球大学訪問
  31日 西原診療所訪問


4.活動報告

<沖縄の医介輔>

 亜熱帯独特の薫りが立ちこめる竹富島。石垣島から船で10分、港からミニバスに揺られ集落へと向かう。色濃く翳る緑と赤煉瓦屋根の家々の中に、竹富診療所はあった。簡単な造りの受付、机とベッド、棚が並ぶ診療室、そこで医介輔である親盛長明先生にお会いした。84歳になるががっしりとした体から発せられる言葉は力強く穏やかであった。先生から診療所についての説明を受けていると、島の"おばあ"が入れ替わりやって来た。血圧を測ってもらいに、また薬をもらうためであった。300足らずの人が住み、30%以上が65歳以上の島で、一手に島民の健康を引き受けている親盛先生への信頼の厚さは想像以上であろう。ある島の人は言う、「先生は何でも分かるよ。安心だねえ。」 おばあと先生がお互い和やかに話す姿を前にして、親盛先生の言葉を思い返す。

 「普通、一つの診療所だと、住民との間に"制約なしの制約"が無条件で成立する。いつ出るか知らない患者に備えて、おのずと24時間体制を採るようになる。悪天候や夜間、日曜祭日であっても、病人は来る。それに対処しなければ、離島へき地の診療は成り立たない。住民もまた、いつでも診てもらえるという気持ちが生じ、そのことが住民に安心感を与えている。」

 「住民から『先生』『先生』と神仏のように慕われて、医介輔はやりがいのある仕事である。しかし、どんな仕事でも外から見るように楽しく、うらやましいものではない。特に人命が対象の仕事で、やり直しのきかない仕事だけに、全神経を摩滅するほどに、精神的疲労が連日と続く。従って、全身を神経にして、地域住民の保健医療及び啓蒙活動を推進し、平常救急の診療を維持している。」


▼親盛長明先生 〜医介輔として〜

 沖縄本島から八重山諸島の交通の中心である石垣島へは、飛行機で約1時間。更に竹富島へは高速船で10分の距離である。島の周囲は9.2km、平坦で小さな島。この島で1916年親盛長明先生はお生まれになった。父親と死別し、右腕を事故で亡くすという大きな不幸にあわれながらも、親盛先生は困難をバネに切磋琢磨された。竹富島の県立診療所に勤務するようになり、医書を頼りに猛勉強。戦時中薬が不足した時は治療薬を一から作ることもあった。

 終戦を迎えると診療所が接収されたため、その後竹富島で診療を始められた崎山毅先生の助手となった。医介輔の資格をとった後も、八重山保健所所長となった崎山先生と共に八重山諸島を駆け回る生活が始まった。多くの農民が零細農家であったこと、また米軍基地建設のための土地接収による住民立ち退き命令や、ベビーブームによる人口増加等を社会背景に、多数の住民が自ら、あるいは政府の移住計画により沖縄群島、宮古郡島から開拓を目的にやって来た。慣れない生活の上に、当時流行したマラリアで患者は増えるばかりである

 「ものすごい厳しい時代。集落と集落をつなぐ道もなく、橋も一つもない。住居も食糧もない中で苦労のどん底をはい回った。ただ、責任と使命に追われ、走り続けた50年だった。」

 1957年、琉球列島米国民政府によりマラリア撲滅運動、"Wheeler Plan"が始められた。マラリアの専門家、Weeler博士の指導のもと、住民全員を巻き込んだ運動である。親盛先生も住民の中に入り、指導、検査、治療を続けた。精力的な活動の結果、明治時代の文献にも登場する「八重山熱」として恐れられてきたマラリアは、1961年、わずか3年で撲滅したのである。またほとんどの住民が感染していた寄生虫の駆除にも成功した。成功の原因の1つに、これ以上悲惨な状況を続けたくないという住民の切実な思いが全住民の運動参加につながった、と八重山保健所所長はこう口にされた。

 1993年、西表に県立診療所が設立されたのを契機に親盛先生は故郷の竹富島に戻り、竹富島診療所所長として現在に至っている。50年にわたる「医介輔」の活動。2000年3月、吉川英治賞を受賞した今も尚、皆の健康を守っていきたいと診療所で皆を迎えていた。


▼ 島ちゃび(島の苦しみ)

 西表島で現在民宿をやっていらっしゃる山城ヒロ子さんは、「ヤマネコ保健婦」として知られている。鳩間島で中学校の教師をしていた山城さんは戦後すぐ、多くの島民が十分な医療を受けられずに苦しんでいる現状に、親の反対を押し切って看護婦、助産婦の資格を得、幾島を掛け持ちしての診療が始まった。公衆衛生看護婦(後の保健婦)としての研修も受け、西表の公看駐在所に赴任する。知らせを聞けば、サバニ(小舟)、自転車、徒歩で、山また山の獣道、川を、縦断しては患者の元へ急ぐ。西部から東部へ、密林の中徒歩で10時間歩いたこともあったそうだ。らい病患者は小島に、結核、精神病患者は裏座敷畑の掘立て小屋に隔離されるという時代であった。また20人/年の新生児が生まれたが、10%は一週間内に死亡していた。結核患者の家を訪問しては療養指導を行い、地区住民へは映写を使って救急法、結核予防、食中毒予防、母子保健等の衛生教育を忍耐強く行った。

 1968年〜1973年、九州大学医学部の医師、看護婦、学生等が八重山諸島へ巡回診療に訪れている。その中に、熱研の先輩であり現在顧問をしていらっしゃる信友浩一先生も学生として参加されていた。この時先生方は、当時保健婦として働いていらっしゃった山城さんにだいぶお世話になられたそうである。現在は西表の西部奥地、粗納で元気に民宿を経営していらっしゃる。長年を経て、元気な山城さんと信友先生のお話をすることができ、一種の感慨を覚えずにはいられなかった。

 離島の多い沖縄では、島ゆえの苦しみが存在する。海峡一つ隔てた向こうの島へ渡るにも天候に左右される。急病となっても頼るべき医師は近くにはいない。公衆衛生看護婦が限地に駐在する「駐在制度」もこのような状況を背景にして生まれた。一元的に沖縄各地に派遣された公看は、訪問看護、保健指導を繰り返し、特に島の人々にとって大きな拠り所となった。

 平成9年地域保健法が施行され、駐在制度は廃止された。住民へのサービスを市町村に移す一環としてなのだが、保健婦は市町村に配置され一元的なシステムは分割されてしまった。そのため島の集合から成る竹富町では、少ない保健婦が島間を往来することでこれまでの業務を続けているが、必然的に滞在する時間が短くなり問題は多いと聞く。     


▼「鉄の暴風」沖縄戦

 1945年4月1日、米国太平洋艦隊沖縄本島上陸。第二次世界大戦の終盤戦と位置づけられた沖縄戦は、米軍を主とする連合軍挙げての陸海空の戦力が投入され、戦闘は峻烈を極め「鉄の暴風」と形容された。沖縄戦による犠牲者は20万人と報告されている。連合軍は上陸後の5日目にニミッツ布告を宣言、奄美以南をアメリカ合衆国の軍政下に置いた。その日から祖国復帰を遂げる1972年5月15日までの27年間、沖縄は日本と異にする歴史を刻み始めるのである。

 当時の課題は食糧危機、そして医療、特に急性伝染病の慢性防止(特にマラリア、性病、結核)であった。戦時中沖縄の医師はほとんど召集させられ、終戦直後医師はわずか戦前の1/3、64名でにまで激減していたのである。医療器具や薬品は米軍から無料配給され、診察、診療は無料で行われた。また医療者は全て公務員として、全島的に統一配置された総合病院、地区病院、診療所や保健所に配置され、皆無償で働いたのであった。医薬品の不足、施設の不整備、そして何よりも慢性的な人不足。あまりの激務に倒れる医師もいた。

 その中に照屋 寛善医師はいた。この状況を嘆いた照屋医師は、米軍政府や各関係者にかけあい、時に新聞に投稿することで、現状を知らしめ改善しようと奔走した。米軍政府の下、病院、研究所の整備、公衆衛生看護婦の養成、契約留学制度による新たな医療者の養成などが次々と始められた。この契約留学制度とは、米軍政府との契約の基づいて本土の大学に入学し、卒業後の帰郷を義務づけるものである。米政府によるGARIOA資金(占領地域救済政府基金)により進められ、後に日本政府が援助する「国費留学制度」に改められて継続された。琉球大学医学部の設置は1981年、それまで沖縄には医師の養成学校がなかったのである。長い時間のかかる教育の場が全くゼロであったことは、沖縄の慢性的な医師不足とは無関係ではないだろう。それでも、本土で学び沖縄へ帰ってくる学生達は、その後の沖縄を支える土台、そして指導者となったはずである。

 多くのものが破壊され、権力、駆け引き、混乱が渦巻く極限状態で、社会はどのようにして弾力的に変わっていったのか。多くの人がこの閉塞的状況に声を挙げ、各々の立場で最善を尽くしていた。時代はいつも人が同時進行で動かすものであるが、この時代も同様、多くの人の姿が幾重にも重なって浮かび上がってくる。


▼沖縄の医介輔

 「医介輔」の歴史もこのうねりの中で始まった。戦時中、両国の軍が集結した南部は激戦地となり、ほとんどの医師が召集させられた。一方、北部へ避難した多くの住民は山奥へと退避を余儀なくされた。医師との連絡を絶たれ、砲火が飛び交う中、住民への医療というものがあるとすれば、誰が行っていたのだろうか。実質上崩壊した医療は、代診や薬局生(医師の診療の助手、見習い)、看護関係者によってかろうじて行われていた。この事が後の医介輔制度の素地をなしたのである。

 続々と投降する住民は集められた。そこで米軍情報部は1人1人捕虜を調査し、戦前医療経験のあるものをピックアップしていく。こうして1945年、米国海軍軍政府布告第9号「公衆健康及び衛生」を発令、男は医師の助手、女は看護婦として勤務させたのである。助手には旧日本軍衛生兵も加わり、これが医介輔の直接の前身となった。当時診療所の半分が医師助手によって機能していた。このことから、Man Powerとしていかに医師助手の存在が大きかったかが想像される。1946年に発足した沖縄民政府の訓令には、「医官輔」と改称されている。医師の自由開業が始まる中、医師助手を法制化して存続させる動きがあり、1951年、琉球列島米国民政布令43号「医師助手廃止」により、「介輔(Medical service man)」が明文化され、初の法的な身分法が得られた。同年の3回の試験により126人が介輔として登録されている。

 介輔は単独で開業、勤務する事が認められるようになった。ただし、辺地や離島での医療に従事する「限地開業」が適用されてのことである。また「医療行為の範囲の制限」を始め、「保健所長の指揮監督下で」という条件が付けられた。これらの制限の中には「医師の指示によらなければ抗生物質を使用してはならない」、「麻薬及び特定薬品を介輔が使用することを禁止」といったものがあり、多くの医介輔達は当然診療業務に支障をきたす。そこで、当時医介輔で構成される沖縄医介輔会は琉球政府に請願を行い、一部改正されることとなった。この様に制限付き医療ではあったが、交通機関の整備も十分にされていない僻地、離島に多くが勤務した医介輔達は、地域医療の第一線で日夜奮闘してこられた。野戦病院のように毎日数十人、時に100人を超え深夜まで患者が押しかけてくる現実を目の前にして、医介輔との役割は医師と変わらない。


▼1972年 沖縄本土復帰

 1965年、佐藤首相が来沖したのを機に、沖縄の日本復帰への足音は急速に高まった。日本政府の技術援助による「沖縄無医地区診察団」や、諸分野にわたる医療調査団の来島が相次ぎ、医療行政を巡る社会環境も本土との一体感を深めていくようになる。この流れの中で、当然ながら介輔の身分保障問題がクローズアップされてきた。日本には医師法第17条が存在する。「医師でなければ、医業をなしてはならない。」このまま本土復帰となれば、医介輔の存在そのものが違法となってしまう。介輔制度を廃止するか、このまま存続させるか。この条文を前に、介輔制度の存続に対する論議が巻き起こった。1967年、佐藤・ニクソン会談による"沖縄の返還"の共同声明が出され、急速に時代は転回していく。1969年、琉球列島米国民政府布令第42号「『医師助手廃止』の廃止」が突然発令される。介輔の身分は通告もなく法的根拠を失ったのである。困惑した琉球政府は「廃止後も従前の例による」として業務を続けさせたが、介輔制度はこれで一代限りのものとなり、自然消滅の運命が決定づけられたのであった。

 当時、国や県の積極的な政策による医療事情の改善にも関わらず無医地区は40にも上った。そして離島、僻地の多くの医療は依然として医介輔に、更には外国医師(韓国、台湾)、本土からの派遣医師に委ねられている。こうした実状を踏まえ、沖縄医介輔会は厚生省や日本政府の関係省庁に陳情、請願を繰り返した。また一般の世論の、医介輔のこれまでの功績に酬いるには介輔制度を存続すべきだ、という意見が圧倒的でもあった。1971年「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」第100条により、医介輔の身分は復帰後も保障が決定されたのである。そして1972年5月15日、沖縄は本土復帰を迎えた。

 終戦とともに米国の直接支配下に置かれた地域は沖縄だけではない。短い間ではあったが奄美諸島も国土から切り離され、沖縄と同じく医介輔30人、歯科介輔2人が存在していた。しかし、1953年12月15日の奄美群島の本土復帰に伴い、彼らを支える法は2年の介輔業務への従事を許すのみであった。その後彼らの多くは他の職業に転職をし、新たな人生を送っている。


▼地域医療を支えて

 日本復帰時点で介輔は49名にまで減少していた。資料によると、1979年国民健康保険加入者の介輔利用率は、沖縄県全体で4.7%となっている。しかし村によっては北部39%、中部37%、南部59%、八重山32%に上る所もあり、医介輔が一次医療をどれ程担っていたかが伺える。また、半数が校医を兼ね、学校保健においても一定の役割を果たしていたようだ。

 生活保護受給者が激増し、公共の整備は遅れ、本来経済的に割に合わない僻地の医療、保健を支えてきた医介輔。沖縄医介輔会を組織し、講習会で互いに医学を学ぶ機会はあっても、診療所に帰れば頼るものは自分一人であった。「医介輔」という名称の下医療に専念されてきた方々を支えてきたものは、やはり目の前の現実に対する使命感であったのだろうか。

 現在現役で診療をなさっている医介輔は10人に満たず、平均年齢は80歳を超えている。戦後の沖縄と共に歩んできた介輔制度。その役割を近々全うしようとしている。


▼世界のAssistant Doctor

 国外に目を転じると、幾つかの国で介輔の名に類似した職が存在する。1972年WHO の月刊誌によると、世界に少なくとも10のフランス語の名称、9つの英語の名称があると述べている。主に医師の少ない発展途上国で見られるが、旧ソ連におけるフェルシャー(Feldsher、副医師)、アメリカにおけるPhysician assistant, Assistant medical officer(医師助手) フランスにおけるMedex等、先進国と呼ばれる国で地域医療を支えるMan Powerとして存在していた。国により細かい定義、役割は違ってくるが、多くは僻地での一次医療、公衆衛生、母子保健、産業保健、臨床検査等、各分野で役割を担っていた。またアメリカ、旧ソ連、フランスでは大学での教育や開業医の下での訓練が法的に定められ、その養成に積極的であったことがうかがえる。

 1999年春、熱研の先輩方はネパールを訪れ興味深い報告をしておられた。当時の活動報告書を参考にさせてもらうと、医療供給の絶対的不足した状況を抱えるこの国では、地方に村単位でHealth Postと呼ばれる医療機関を置いている。そこには簡単なトレーニングを受けたHealth Assistantや補助的な医療スタッフが配置され、患者への問診、簡単な検査、投薬を行っているという。必要であれば病院に患者を送る措置をとるというパイプ役も担っている。また患者が初めに訪れるのは、多くが伝統的な呪術医(祈祷師)である。彼らのトレーニングも行われており、呪術医→Health Post→病院 といった流れが形作られている。このように、医療資源の不足した状況で既存の人やものが活きる例を世界各地で見ることができる。

 国際保健の分野では、PHC(Primary Health Care)やCHW(Community Health Worker)という言葉が存在する。1978年、プライマリーヘルスケアに関する国際会議がAlma-Ataで開かれた。全ての人が健康になるためには「適切な保健および社会政策の保証がなければ実現不能である」とし、その開発の一環としてPHCを掲げている。PHCの役割を担うのに、医介輔のような「準医師」の存在は大きい。現在の沖縄のように、正規の教育を受けた医師が医療圏を満たしていくのに越したことはない。しかしその余裕のない状況では、時間とお金のかかる教育を必要とした医師にこだわるのではなく、準医師にあたる方々に勇気をもって医療権(医療を行う権利、義務)を法的に認めることが、より柔軟な対応であるかと思う。住民と医療の距離が状況的に遠い場合、間にワンクッション置くことで、沖縄の医介輔に見られるように、橋渡し的存在以上になり得る可能性は大きいように感じられる。


▼医学生として

 研修を通して様々な人に「医介輔」の事を尋ねてみたが、周りの医介輔への印象、評価は必ずしも一定していなかった。戦後の状況下における医介輔の医療活動を高く評価する一方、医療者として技術的に劣ると首を傾げる人、医介輔という名を耳にした程度の方もいる。現在離島を多く抱える沖縄では、自治医大出身の医師、派遣医師の離島への配置、保健婦による一次医療供給体制の強化、FAX,コンピュータによる遠隔医療による質の向上、交通の整備による広域医療圏の充実がはかられようとしている。私たちは実際医介輔の方々に会い、時代、状況の違いはあるが、医師として自己研鑚していく心構えを教えていただいたように感じている。またそのような心と、制度・システムが相補的な関係を築くことの大切さを感じた。戦後沖縄の場合、ある程度の強制力を持って全体の医療状態、衛生状態の改善が試みられていったことが、成功の一因と思われた。だがこれからの時代、民主的手続きの中で事柄を決定していくことを考えなければならない。その地域、社会でどの様な人材が存在し、どの様に配置していくのか。また自分はその社会でどの様な位置にあるのか。まずこれらの視点から到達すべき全体像を描き、実際我が国で、もしくは他の国でどのように活かすことができるかという姿勢を大事にしていきたいと思う。 
(文責 森)


▼西原診療所を訪ねて

 我々は医介輔について最後に、沖縄医介輔会の9代会長である野原廣和先生にお話を伺った。先生は、那覇市で6年間小児科医として勤務した後6ヶ月の指導を受け、渡嘉敷村、つまり離島へ行かれた。ここでの医療はとても大変なものだっだそうである。もともと、沖縄では医師が不足していた。その為医介輔という沖縄独特の制度が発達したのである。その医師不足は本当よりも離島で深刻だったであろうというのは容易に推測できる。そこでの医療についてだが、先生は、渡嘉敷村には9年間おられたそうだが、休みはほとんどなかったと言われていた。朝、昼、晩、そして夜中、いつでも島の住民が先生の所へ来る。当然のことだろう。今では救急病院等があるが、その頃はただでさえ医師不足の時期、しかも島に1人しかいない。この状況で仕方がないのだ。とはいえ、先生はそこから逃げ出すこともなく、9年間、医介輔としての仕事を全うされた。これは本当にすごいことだと私は思う。その後、本島へ戻られ、外科医院に勤務された後、無医村の西原町で診療所を開かれ、現在に至っている(先生は現在休診中である)。 

 この話において我々が最も考えなくてはならないことは、離島医療の現在についてである。現在全国的に離島医療は自治医大出身の医師に多くが委ねられている。しかし、自治医大の学生全てが離島医療をやろうというmotivationをもって入学したのではないため今日の離島医療では、自治医大出身の医師は義務年限の間定められた地で医療活動を行っても、離島であるがゆえに存在する困難によって、任期が終わるとその地を離れる医師が多いと聞く。その中で野原先生は離島、無医村での医療を懸命に頑張ることによって、その土地の人と親密になり、そこでの医療をより良いものにしていかれた。私はそれが大切だと思うのである。医師と患者といっても、とどのつまり人間同士であるのだ。私は野原先生の話を聞き、これからの離島、医師の少ない地での医療について今課題とされていることは、医介輔の先生方が実際行ってきたことがなされていくことだと思う。これらを参考にすることで、僻地医療は良くなっていくと確信した。
(文責 阿部)

   
<沖縄県八重山地域におけるマラリア有病状況の推移と対策>

[1]第二次世界大戦前

 マラリアに感染した外国難破船の乗組員が、西表島に流れ着いたことで、蚊を媒介にして地元住民にマラリアが感染した。患者数は1000〜2000人、死亡者は20〜30人と平衡状態だった。その理由は@蚊の駆除作業が組織的に行われなかったことに加え、治療薬も不充分であり根治治療ができなかったから。患者数に比べて死者が少なかったのは住民には、ある程度免疫があったことと、流行が穏やかな三日熱マラリアであったからであると考えられる。A住民は、できるだけ、有病地には近寄ろうとしなかったが、薪や水の確保から有病地に近づかざるを得なかった住民もいたから。 

[2]第二次世界大戦後

T:1945年6〜12月で患者数約17000人、死亡者数約3600人という悲劇が起きた。その理由は@アメリカに攻撃を受けていた日本軍の戦略から、マラリア無病地の住民(子供、老人、女性が中心)を有病地に強制退去させたため。(しかも、蚊の大量発生時期に。)A食と住を失われており、しかも流行していたのが重症の熱帯熱マラリアであったから。

U:1949年には患者数17人、死亡者数8人と激減した。その理由は@アメリカ民政府が、治療薬を供給したことに加え、八重山保健所を中心に、マラリア対策が行われたから。A有病地への立ち入りが、厳しく管理されたから。

V:1950年以降、沖縄の、アメリカ軍基地の土地確保のため、マラリアに対する抵抗力のない沖縄本島の住民に対して、八重山(しかも有病地)への開拓移民を奨励したため、マラリアが勢力を盛り返した。  

W:そこで、1957年から、ウイラー・プランが開始され、ついには1961年に、マラリアを撲滅した。そのウイラー・プランとは、@DDT屋内残留散布の徹底(蚊のライフサイクルを切断することで、最小限の薬害で最大の効果を得た。)A戦後確立されていた、治療投与(面前投薬、予防投薬)と、早期発見のための検査を踏襲したことを言う。このウイラー・プランは、アメリカ民政府の資金援助と、戦争マラリアを経験した住民の「再び忌まわしい過去を繰り返してはならない」という気持ちを原動力にした住民や、関係者の協力と努力によって成し遂げられた。


▼マラリアの現在と未来

現在、日本は@マラリア流行地との交易拡大に伴う交流の増加、交通手段の発達に対する検疫機能の不備、Aエコツーリズム等の媒介蚊常在地への人の侵入などにより、移入マラリアが増加している。これに対しては、検疫の厳重化、エコツーリズムの規制が必要である。今後の世界のマラリア対策は、@ウイラー・プランの実施、A貧困、政治的・経済的不安定、戦争の人権問題を解決していくことがメインになってくる。特に、われわれは、八重山の戦争マラリアの悲劇から、政治的安定による平和の重要性を学ぶべきだ。 
(文責 住吉周作)

<沖縄衛生環境研究所>

 沖縄といえばハブである。べつに,ハブが子猫のようにかわいらしい動物であれば問題はないのだが,残念ながらハブは人をかみ,死に至らしめることが往々にしてあるため,沖縄の脅威となっていた。よって,当然それを研究する施設が沖縄にはある。そんな研究施設に我々は行ってきた。名前は沖縄衛生環境研究所,ハブだけではなく沖縄の環境一般に関する科学的調査を通じて公衆衛生の向上,環境の保持を図る施設である。組織の沿革などパンフレットをみればわかることは省かせてもらって,ここでは我々が何を見てきたか,そして何を思ったかについて順次書いていこうと思う。

 我々が見てきたこの研究所の側面は大きく分けて二つである。一つは沖縄県内の公衆衛生に関する情報の統合・発信機関としての側面であり,もう一つは危険生物(特にハブ)の研究・そしてそれを活かした防除を実際に行う研究機関としての側面である。(ほかにもいろいろな側面がこの研究所にはあるが,ここではあくまで我々が見てきたものに限っている。)

 まず,情報機関としての側面について述べる。この研究所では県内各地の保健所から要望,報告といった情報を集めそれをまとめて,一週間ごとにまた各地の保健所に発信している。また,厚生省や国立感染症情報センターとも連携しており,得られた情報はホームページの形でも発表されている。これらの連携は全てオンラインによってなされているところが特徴的である。これによって迅速に大量の情報を扱うことができるようになっており、離島の多い沖縄にとっては大きな意味をもつ。

 次にもう一つの側面,研究機関としての側面について述べる。ここは感染症の疫学的調査研究はもちろん,赤土やハブ,海洋危険生物といった,まさに沖縄と感じさせる(私はそう感じた)研究がなされている。我々が説明を受けたのは沖縄の感染症と海洋危険生物,そしてハブについてだった。特にハブは後に出てくるハブ研究室で実際のハブを見ることができ,個人的な感想を言わせてもらえれば,これだけでも沖縄に来た甲斐があったというものだった。話を元に戻すと,説明の際,海洋危険生物の代表的な例としてハブクラゲというクラゲの一種を紹介されたのだが,これは我々にとってはなじみの薄いものであった。しかし,このクラゲは名前から想像できるように非常に強い毒をもっており,対処法を誤ると死に至ることさえあるらしい。ハブクラゲの他にもカツオノエボシといったクラゲ類やダツ(これは魚で,光に反応して海中から飛んでくるらしい)等のいくつかの危険な海洋生物の紹介と,万が一被害を受けた時の対処法について説明を受けた。これらの説明を受けて初めて,自分がいかに何も知らないで海に行こうとしていたかを知り,途端で沖縄の海が恐くなってしまった。本当に海は危険がいっぱいである。皆さんも海で泳ぐ際は目には水中めがね,手にはいつ襲われてもいいように銛を持ち,体は沈まない程度に堅固なウェットスーツで臨むことをお勧めする。水掻きもあればなお良い。間違っても水着だけといった貧相な装備で行ってはいけない。それだけでは海で死ぬために行くようなものである。 

 感染症についてはマラリアの撲滅作戦についての説明を受けた。マラリアをじりじりと攻めていくところに迫力を感じた。ハブの説明は,別館のハブ研究室で受けたのだが,ここにはいくつか写真が飾ってありその中でも衝撃をうけたのが,ハブにまるのみにされた数匹の子猫の写真であった。この写真を見て,本当にハブは人家のすぐ近くにいるのだ,ということを実感した。説明の後,ハブを実際に飼育している場所に移動して,本物のハブを見せてもらった。生まれて初めて見たハブは,当たり前だがただのヘビだった。いくつかの種のハブを紹介されたうちで,妙に気になったのが雑種のハブの存在だった。雑種というものはおうおうにして生殖能力を持たないのだが,結局そのハブが雑種なのかどうかは聞かずじまいだった。

 ここまで我々が見てきた沖縄衛生環境研究所の二つの側面について述べてきたが,いかがだっただろうか。沖縄の公衆衛生活動の中枢として働くこの研究所について少しでも理解いただけたら幸いである。ただ,担当者の興味の偏りにより,二つの側面のそれぞれに対する記述量において公平さを欠いてしまったことは大変申し訳なく思っている。大変簡単なものではあるが,沖縄衛生環境研究所についての報告は以上である。
(文責 市川)

 
<石垣市健康診断>

 石垣市では、年に一度、15歳以上の希望者に対し、基本健康診査(有料500円)が行われている。石垣市の人口4万3千人に対し、去年は7100人が受診した。受診者には、石垣市の健康手帳が交付され、診断後の健康管理など、保健婦によるアフターフォロ―も積極的に行われている。

 今回は検診を見学させていただいたが、検診が終了すると、受診者1人1人に対し保健婦の方が熱心な指導を行っており、受診者の方も保健婦を信頼している様子で様々な相談を持ちかけるなど、保健婦の地域への密着性が感じられた。

▼ 石垣市役所健康増進課 長田節子さんの話

 石垣市では保健婦1人の平均受持世帯数が2809世帯、受持人口7330人となっていて多忙であり、更に離島、へき地も多い為、人員不足に悩まされている。それにも関わらず、保健婦は、積極的な家庭訪問を行い、各家庭の構成員とその健康状態までもほぼ完全に把握し、熱心に健康管理の為の活動をし、妊婦や新生児のいる家庭を訪問して指導を行うなど、積極的な活動を展開している。

▼ 母子保健事業の実績

 石垣市では、15〜19歳の若年妊婦が年々増加しており、過疎化、核家族化も進んでいることから、保健婦、保母、母子保健推進員、小児科医、食生活改善推進員など多方面からのスタッフによる、こうした妊婦、母親への積極的なフォロー体制がとられている。特に、石垣市では『先輩ママとの交流』、『ルーキーママの集い』などが行われていて、各自の育児不安を解消し、適切な養育が行えるようになること、母親同士の交流を図り必要な時に相談できる仲間を作ることなどを目的としている。その場ではレクレーションや講話、離乳食実習などが行われる他、子供を預けて母親だけで食事会を行い、子供から解放されて会話を楽しむ時間を設けるといったこともしており、それらを通して輪が広がり、参加者の数も増えてきている。

▼ 平成11年度老人保健事業実績

 石垣市人口構成は、総人口43744人、40歳以上人口12743人、65歳以上人口6322人、老年人口比率14,5%となっており、高齢化が進んでいて、過疎化も進んでいる。このことから、保健婦も老人に対する保健サービスを実施している。介護保険制度の導入に伴い、要医療や、要介護となることを防止する健康つくりなどの予防対策をより一層充実することが必要になり、保健婦も老人が介護保険の対象とならないよう自立支援等予防活動を行っている。また、基本健康診査では保健婦の指導もあり、受信率も高くなっている。
(文責 平田)
医介輔・戦後沖縄の医療に関しての参考資料はこちらをご覧ください。