パキスタン班


○研修目的

 北部パキスタンのフンザ地方は古くから長寿の都として知られる。この地を訪れて人々の生活や医療の様子などを見学することによって、長寿というのが真実なのか、そしてそうであればその理由は何なのか、学生の身で可能な限り考えてみたい。

○団員構成

 熱帯医学研究会 部員2名  

○研修日程

 8月1〜14日


 
中国とパキスタンを結ぶ大動脈、カラコルムハイウェイ

 カラコルムハイウェイを辿ること30時間、私達はようやく北部パキスタンの中心都市ギルギットに辿り着いた。予定より15時間遅れの到着である。

 パキスタンの首都イスラマバードより北東へ500キロ、ギルギットまではカラコルムハイウェイを通ってバスで通常14時間程度の道のりである。カラコルムハイウェイはこの地域の大動脈であり、パキスタンからカラコルム山脈を越えて中国新疆ウイグル自治区のカシュガルへと、1200キロに渡って続いている。1960年代から建設の計画が始まり、完成するまでに30年もの歳月が流れたという大工事であったという。両側から迫り来るような山壁の中腹や、遥か下を流れるインダス河岸の絶壁の上を、バスがすれ違おうものなら1台が谷底に転がり落ちるかのような狭い道路が、くねくねと曲がりくねってどこまでも続いている。

 所々開けたところに町や村が散在している。カラコルムハイウェイが開通するまでは、隣同士の集落であっても行き来が難しかったのであろう、家の作りなどに微妙な違いが見られる。人や物の往来が盛んになったとはいえ、まだまだ独特な様相を見せている。

 今は8月。パキスタンでは雨季にあたる。インド洋の温かい湿った空気がヒマラヤ山脈へとぶつかり、多くの雨を降らせる。この時期はただでさえよろしくない交通事情が一層悪化する。年に数回はバスの転落事故があるという話である。インダス川は谷底深くを流れている上に流れが速い。落ちると遺体はおろか、遺留品さえ残らないこともあるそうだ。

 私達がギルギットへ向かっている時にも雨が降り続け、とうとう土砂崩れより通行できなくなってしまった。こうなるとこの地域の交通は完全にストップする。他に道らしい道はないのである。何十台、何百台という車が山肌に列を成している様子は、遠くから見ると壮観ですらあった。

 仕方なくベシャームという地点で、バスに乗ったまま一夜を明かしたのだが、後になって聞いたところによると治安の悪いところだったらしい。復旧作業は何よりも優先して進められたのであろうが、かなり大きな土砂崩れであったために一晩待っても復旧しなかった。私達は結局崩れているところを歩いて抜けて、その先で新たな足を調達してギルギットへ向かうことにした。

 途中、トラックが谷底へ1台落ちていた。人が集まって騒いでいたことから察するに、落ちたのはつい先刻のことであろう。当初の予定を大幅にオーバーして、疲れきってしまった私達ではあったが、無事に目的地へと到着できることに対する感謝の念を思い起こさせるに十分な光景であった。




陸の孤島、隔絶された楽園、フンザ

 ギルギットで1泊した私達は、さらに奥地のフンザ地方を目指した。フンザはパキスタンの中でも特殊な地域である。この高原地帯は今ではカラコルムハイウェイによって行き来も比較的容易になっていて、特にヒマラヤ山脈を目指す登山隊のベースキャンプとして名高いが、以前はさながら陸の孤島のようなものであった。

 中国からもパキスタン平野部からも、荒れ果てた高山地帯を抜けて来なければならないのだが、フンザに入ると途端に緑が増える。ヒマラヤ山脈の雪融け水のせいであろう。私達が訪れた8月は、ちょうど杏子の収穫時期であり、木々の緑と杏子の黄色の対比が鮮烈に目に飛び込んできた。その向こう側には、青空を背景に6000m級の山々がそびえている。どこを見ても絵になる風景だ。春なども花が咲き乱れて大変美しいという話である。

 フンザは世界でもっとも美しい地域の1つだと言われている。そこに至るまでの道のりが長く、あまりにも殺風景であるために、実際以上に美しく感じられるのだとも言われる。なるほどその通りかもしれない。遥か昔、まだまだ人々が主に徒歩で旅行していたころ、山脈を越えてここへ辿り着いた人は何を感じたろう。それこそ天国のようにも思えたに違いない。

 地理的にのみならず、文化的、民族的にもフンザはパキスタンの他の地域とは一線を画している。まず、ここの人々は金髪碧眼、ギリシャ風の顔立ちをしている。ここはアレクサンダー大王の東方遠征の終着点に近く、彼らは遠征してきて帰ることのできなかった兵士の末裔ではないかと言われている。さらに宗教が違う。パキスタンではイスラム教が信仰されているが、95%以上はスンニ派である。ところがここフンザでは住民のほとんどが、シーア派の一派であるイスマイーリー派を信仰している。シーア派は厳しいことで有名であるが、イスマイーリー派はイスラム教の中でも戒律が緩やかであるために、フンザでは女性を戸外で見かけることも多い。



 
パキスタン北部における医療事情

 私達はフンザ奥地のグルミット村を訪れた。グルミット村はカラコルムハイウェイ沿いにある人口2001人の集落であり、中国国境まで100キロ強しかない。観光客の訪れによって、少しずつ人々の生活に変化が出てきているが、まだ村人の大部分は以前と変わらぬ農耕生活を送っている。ちょうど観光化が始まりつつある村と言えるだろう。

 独立前はイギリスの植民地だったことから、パキスタンの医学教育や医療制度はイギリスの方式が採用されている。私立の病院は別として、地方でも公務員である医師が派遣されているのだ。グルミット村にも診療所があり、ドクターが1人常駐していた。

 グルミット村のDr.ムハンマド=アクラムは御自身もパキスタン北部の小さな村の生まれで、ラホールの大学を卒業、1988年に政府の北部地域健康省に入ってから12年間パキスタン北部地域の診療所を転々としていらっしゃる。大変気さくな方で、私達のために多くの時間を割いていただいた。その様子をインタビュー形式で再現してみたい。

〜この診療所では何人のスタッフが働いていますか

 医師は私1人だ。他に5人の男性看護スタッフが働いている。

〜患者は何人くらい訪れますか 

 1日に50〜60人というところだ。夏は下痢、冬には肺炎や気管支炎が多い。高血圧も多い。

〜診療にはどのくらいのお金がかかるのでしょうか

 ここは政府の管轄下にある診療所なので、診察は一律2ルピーだ。医薬品についてはお金がかからない。 

〜患者はどのくらい遠くからも訪れてきますか

 この診療所はこの村でただ1つの診療所であるだけでなく、近辺の15個の村を含む、16000人が生活している地域でたった1つの診療所だ。もっとも離れている村は60キロ離れている。他の村にもヘルスセンターが必ずあって、保健婦が常駐しているが、ドクターはこの地域に私1人だけだ。

〜この診療所はいつ建てられたのですか

 1964年だ。建物が古くなってきたので、今裏に新しい建物を建造中だ。

〜この診療所で対応できないような症例の場合どうしますか

 ここでは手術はできない。だから例えば大腿骨骨折や急性虫垂炎などの場合、42キロ離れたアリアバードか、150キロ離れたギルギットの病院に送ることになる。ギルギットまで行くと何にでも対処できる。

〜ドクターはここの診療所には何年くらいになりますか

 2年前にここにやってきた。その前にはカリマバードの病院にいた。

〜そうやって長年色々なところを回ってこられたわけですか

 そうだ。そして時々3ヶ月や6ヶ月の期間だけ大学で研修して、医学の勉強をやり直している。そういう制度になっているのだ。

〜フンザ地方はパキスタンの中でもかなり健康状態がいいように思われていますが、実際のところどうなのでしょうか

 それは事実だ。例えばフンザにおける乳幼児死亡率は40くらいである。パキスタン全体に比べてかなり低い。寿命も長い。80歳近くまで生きる。しかし、最近寿命は短くなっていっている。

〜平均寿命が下がりつつあるというのは何故でしょうか

 主に生活習慣の変化による。食生活が変化して肉類を食べるようになったことでコレステロールの摂取が多くなっている。それに自動車など機械類が普及したために人々が以前より働かなくなってしまった。

〜本来はどういったものを主食としてきたのでしょう

 主食はジャガイモだ。蛋白質は主に豆類から取ってきた。この村には肉屋がないだろう。牛乳や卵にしてもあまり取ることはない。この辺りはとても寒いために牧草があまり育たない。この村を牛を見ただろう。痩せていると思わなかったか。冬などはほとんど牛乳を出すことはないんだ。

〜たとえば、高血圧や結核の患者はどのくらいいますか

 このグルミット村にはだいたい2300人が住んでいる。高血圧の人間はその中で138人だ。他に、たとえば結核が4人に、糖尿病が2人いる。

〜高血圧がかなり多いですね。何故だと思われますか

 もっとも大きな原因はストレスだろう。ここでは様々なストレスに脅かされながら生活しなければならない。山道を歩くのにしてからそうだ。どれほど歳をとっても、自分のことは自分でしなければならない。危険な道だからといって歩けなくなったら、あとは家の中で寝たきりでいるしかない。そういう意味では日本のような国に比べて歳をとってからのQOLは大変低いといえるだろう。あと、このあたりは伝統的に茶に塩を入れて飲む習慣がある。そのせいもあるだろう。

  健康に悪いといっても、食生活はなかなか改善しない。たとえば、フンザバーニィを知っているか。フンザワインのことだ。今のパキスタンになってアルコールは禁止されているのだが、どうしてもなくならない。特に老人達はあれが体にいいと信じ込んでいる。「寝る前に2杯飲んでいれば病気にならない」という人もいる。最近はカラコルムハイウェイを通って中国の酒も入ってくるようになった。

〜ドクターは塩入りのお茶は飲まれますか

 飲まない。あれは体に悪い。砂糖も入れない。

〜この地域がパキスタン全体に比べて健康状態がいいのは何故でしょうか

 それはアガハーン財団のおかげだ。




アガハーン財団

 前述のように、この地域ではイスラム教シーア派の一派、イスマイーリー派が信仰されている。アガハーンとはイスマイーリー派におけるイマームと呼ばれる存在である。イマームとはシーア派では宗教的指導者であると同時に政治的指導者でもある。現在のアガハーンは4代目であり、パリ郊外に在住している。アガハーン財団はそのアガハーンによる財団である。

 イスマイーリー派はインド、イラン、パキスタン、イエメンなどに細々と信者がいる少数派であるが、アガハーン自身がこの地方の出身であったために、アガハーン財団は北部パキスタンに多大な援助をしている。援助している分野は教育・保健など多岐に富んでいるが、特に女性の教育に力を入れている。我々が滞在したグルミット村にもアガハーン財団の手による女児の小学校や、母子保健センターがあった。

 パキスタンには義務教育が存在せず、識字率が40%にも満たない。それに対してフンザ地方では識字率は80%近くにものぼる。良く知られているように、母親の学歴が高いと乳幼児死亡率が低下する。アガハーン財団が女性教育に熱心なことがフンザの健康状態の改善に寄与しているのは間違いないだろう。

 グルミット村の母子保健センターには、2人の看護婦と3人の現地女性アシスタントが働いている。政府の診療所よりも建物や設備が断然立派である。お産は診療所ではなく、この母子保健センターで行われている。内部の見学は男性である私達にも許されたが、撮影は許可されなった。 

 1992年にこの母子保健センターができるまでは、村の伝統的助産婦によって自宅分娩が行われていたという。診療所は1964年から存在していたはずだが、そこはイスラム教、男性のドクターでは分娩を診ることは生活習慣上難しいのであろう。政府のヘルスセンターと違い、 この母子保健センターは全ての村に存在していたりするわけではない。当然、隣の村などからも出産のためにやってくるようだ。自宅分娩の世話もしているらしい。ちなみにここで出産に掛かる費用は、センターで産むと200ルピー、自宅分娩なら300ルピーである。例えば国内郵便は2ルピー、タバコは10〜30ルピーである。ここの人々にとって出産に掛かる費用がどのくらいに感じられるのか、それから類推してもらいたい。

〜他に何か理由はないでしょうか

 教育水準が高いというのも大きな理由だろう。例えば識字率にしても、パキスタン全体ではせいぜい30%だが、フンザでは80%にも上る。 (これもアガハーン財団のおかげである。)

〜先ほどから挙げていらっしゃるそうした数字はドクターの直感によるものですか

 フンザ地方における識字率や乳幼児死亡率といったものは、これまたアガハーン財団が発行している報告書による。

〜ところで、この村には診療所のほかにアガハーン財団の援助で建てられた保健センターがありますが、保健センターと診療所の間に何らかの協力関係はあるのでしょうか

 もちろんだ。お産が保健センターで行われているが、難しいお産の時には私も呼ばれる。2週間前にも呼ばれたばかりだ。

〜ドクターもイスマイーリー派でいらっしゃるのでしょうか 

 そうだ。アガハーンを尊敬している。アガハーン財団はすばらしい。

〜診療活動のほかに、人々に対する衛生教育のようなことはやっているのですか

 やっている。モスクや学校でワクチン、家族計画、健康問題について講義する。

〜家族計画というのは女児に講義しているのですか

 いや、それは違う。母親達だけだ。子供については母親次第だろう。

〜健康に関して、最も大きな問題点はなんですか

 男性はやはり高血圧、女性の場合は貧血だ。それに子供の寄生虫だ。牛乳などから感染してしまう。この前は生後3ヶ月の子から寄生虫が出てきた。

〜ところで、クーデターによって何か変化はありましたか 

別に人々の生活には何も変化はないよ。

…実は、あまり外国人と話をすることは良く見られないのだ。こうやって話をしているのも、君達が医学生であり、純粋に医学的なことだけを話しているから問題はないだろうと考えているからなのだ。

以前に一度外国のテレビの取材を受けたことがあってね。その時は、それが外国で放映された後で色々注意を受けてしまったのさ。



 
医療援助の在り方

 母子保健センターを見学しながら、この立派ではありながら外部から入り込んだ人間が作った施設と、古くはあるが国家の運営による診療所とでは、やはり何らかの確執があるのではないかと、少々意地の悪いことを考えていた。

 そこで、その事について尋ねてみたのだが、インタビューを読んでもらえれば分かるように、ドクターの答は予想と全く違うものであった。むしろ、分娩などのときでも、かなり協力関係はしっかりしているようだ。さらに、両施設とも診療だけではなく健康教育なども積極的に行っている。もちろん、その時は協力してやっているそうだ。

 もしかするとこの協力関係はドクターとセンターの看護婦さんの個人的な努力によって成り立っているだけなのかもしれない。ドクター御自身がイスマイーリー派を信仰していらっしゃることも影響しているだろう。しかしそこに、現地の人々とNGOとを地域に密着した宗教が結び付けるという、理想的な援助のステロタイプの1例を見たような気がした。




フンザの医療制度に学ぶ

 グルミット村の入り口にある小さなホテル。オーナーと仲が良いらしく、Dr.アクラムはほぼ毎晩ここにやって来て、庭で村人と談笑している。村で仲良しになった子供が私達に、ドクターが来たよ、と教えてくれる。なかなか英語が達者である。どの学校でも英語教育に力を入れている。夕食でもご一緒しようかな、と思う。

 ふと、停電だ。この辺りの電力は水力発電によって賄われている。夕方7:00過ぎであるが、もう真っ暗である。しかし誰も焦らない。相変わらず談笑が続いている。そのうち電気が復旧した。村のあちこちに小さな電気が点っていく。人間は本能として電気を求めるのだなあと、実感する瞬間である。電気は戻ったが、ドクターは残念なことに既に食事を取られた後であった。次の日にまた話を伺う約束をして、ドクターは診療所近くの自宅へと戻っていった。 

 Dr.アクラムは、この村に来られて2年になるそうだが、本当に村の生活に溶け込んでいるように感じられる。雑談の中で、どこそこの家の誰は贅沢が過ぎて糖尿病になってしまった、などという話まで飛び出した。守秘義務に反するような気もするが、どこか暖かみを感じる。日本でも一昔前の田舎なら見られたような生活なのだろう。

 しかし私達が驚いたのは、パキスタンではこの地域に密着したドクターをバックアップする制度がきちんとしている点である。インタビューで述べられているように、ドクターは12年間北部のあちこちの診療所を回って来られたわけであるが、その間にも時々3ヶ月か6ヶ月という期間、研修のために大学病院に戻って知識を磨き直すのだという。田舎に行ったら行ったきりの日本の医者と、なんと違うのであろうか。

 「研修は冬に行くのさ。この辺りは冬が厳しいからね。積雪のせいで車で行き来したりできなくなるし。そんな時に平地の大学に戻って研修するんだ。あっちは住み易いからね」ドクターはいたずらっぽくこう言われた。

 ギルギットの病院を頂点とした医療システムといい、このような地域密着型の診療所をバックアップする仕組みといい、アガハーン財団だけでなくこういった制度が北部パキスタンの健康状態を少しでも改善しているのではないだろうか。無論、平野部に比べて治安がいいという条件が、それらがきちんと機能する上で必要不可欠なのではあるが。限られた人的資源、労力、費用を効率よく運用しているように感じられる。人々の教育レベルも高く、これからどう変わっていくか興味深い地域である。



 
変わり行く生活

 それゆえの厳しさはあると言え、グルミット村はまだまだフンザの古き良き生活を続けている。しかし、カラコルムハイウェイが開通し観光客の数が増え、その生活にも少しずつ変化が訪れつつあるようである。

 インタビューで述べられているように、もっとも端的に表れているのは食生活の変化であろう。肉類、アルコール、インスタント食品。Dr.アクラムは、最近になってグルミット村でも以前は全くいなかった肥満が見られるようになったという。

 多分にドクターの主観が入っているが、変化しつつあることは間違いないようである。これがフンザ最大の観光都市であるカリマバードなどになると、さらに観光化が進行している。気候の厳しいこの地域では、観光業の収入は魅力的だろう。これからさらに観光化が進むことは間違いない。それに伴って、人々の生活はどう変わっていくのだろうか。



 
フンザに思う

 フンザは基本的に資源が外から流入することによって成り立っている地域であると言える。気候は厳しく4ヶ月の短い夏を除けば農作物もあまり取れず、土地は山がちで交通も困難である。だから水力発電所や立派な医療施設、教育施設は全て外からの援助によって建設されている。 
 しかし、そのことに目をつぶればフンザの人々はなかなか幸せそうな雰囲気をしている。カリマバードではそうも行かないが、それ以外の村では散歩していると必ず子供を初めとして様々な人が声を掛けてくる。やれ、杏子を食べないか、だの、我家に寄って一杯茶を飲んでいけ、だの。 
 貧富の差もなさそうであり、典型的な田舎の良き生活という印象である。それにも関わらず、教育水準が非常に高い。子供たちは皆、なかなか上手な英語を話しているし、義務教育制度がないにも関わらず、学校に行っている子供が多いようだ。20代以下の人とそれよりも上の世代の人との間に、学歴という点で大きな開きがあるように感じる。
  これは明らかに援助の賜物であろう。おそらく莫大な資金が投入されているであろう、と思われる。今回は教育施設がどのように経営されているか調べることができなかったので分からないが、運営にもかなりの援助が行われているのであろう。それでも、私はフンザの人々の生活を見て、援助によって人々がこのようにのびのびと夢を持って暮らすことができるのなら、やはり援助は悪くないな、と思った。
  もちろん、わずかな滞在期間の中では見ることができたのはほんの一部に過ぎない。それに援助の効果なども長い目で見なければ真に評価することはできない。観光客と見ると積極的に話し掛け、勉強が楽しいなどと言っていた子供たちが大人になった時、その頃にはフンザへの援助が正しかったかどうかがはっきりするだろう。その頃、フンザが援助して良かったと言われるような地方になっていることを心から願う。