九大熱研HOME活動報告書2002年度沖縄班

沖縄班

活動目的

戦後沖縄が独自にもつ「医介輔」(いかいほ)制度を通して、地域医療の現場を見学し、医療と社会の接点にふれる。

参加者

 森 桂    (九州大学医学部5年)
 高嶋 秀一郎 (九州大学医学部5年)

研修地

久米島  美崎診療所(宇江原総健 先生)
<お詫び>
夏の活動に向け美崎診療所と連絡をとりながら準備しておりましたが、久米島の医介輔でいらっしゃる宇江原総健先生が7月頃体調を崩されました。しばらくご様子をうかがっておりましたが、先生のご体調を考えあわせ、最終的に熱研としての訪問は遠慮させていただきました。現在も先生は沖縄本島の病院で療養され、美崎診療所では御家族がかかりつけの患者さんへの処方や、最近設立された公立久米島病院をはじめとした他の病院への紹介をなさっているそうです。  戦後126人が医介輔となり、その後の沖縄医療の一端を担ってきた、その方々の軌跡をこうして50年たって少しでもなぞらえることができればと思い準備しておりました。沖縄で現在診療されている医介輔は、北城1人、黒島1人とお聞きしております。今では、琉球大学医学部や自治医科大学、中部病院など沖縄をとりまく医療体制も大きく変わりました。人々の善意とそれにもとづく努力によって成り立つ社会の形として、医介輔やその後の沖縄医療に触れることができ、 沖縄班としての活動は今回見送ることになりましたが、美崎診療所の先生・御家族の方々をはじめ、OBの先生方、部員の方々には大変お世話になりました。予定していたご報告ができず心からお詫びしますとともに、皆様方に深く謝意を表しいたします。

沖縄の医介輔・医師養成の変遷

戦前
本土、満州、朝鮮、 台湾の大学・専門学校で医師養成
県内医師数163人
1945
終戦時の県内医師数64人 (人口10万対13人)
医師助手・医官輔 (医介輔の前身)
1951
介輔制度開始 (医介輔126人登録)
契約学生制度
琉球大学開学(1950)
琉球公費学生制度
国費学生制度
保健学部設置(1968)
本土医師派遣制度
1971
介輔制度の存続決定
1972
沖縄本土復帰
医学部設置(1979)
1期生卒業(1987)
1996
医介輔11人
県内医師数2189人 (人口10万対170.6人)
全国医師数240,908人 (人口10万対191.4人)

終戦直後、極端に疲弊した医療体制に対し、当時沖縄を統治したアメリカ軍政府は医師でない者にも医業を特例で認めた。戦時中の衛生兵,医師の手伝いをしていた者,医学校中退者など医療の経験を有する者に「医師助手」という資格を与え,医療に従事させた。この医師助手(Assistant Doctor)が,後の医介輔となり介輔制度をなしている。並行して医療者育成のため、アメリカや日本からの資金により、本土への留学制度や医学部設置、医師派遣、公衆衛生看護婦の養成などが行われてきた。 医介輔は沖縄返還後もその身分が保障され、僻地・地域医療に従事している。独自に研修を積みながら、地域によってマラリア撲滅や離島の1次医療の要として活躍されてきた。  Assistant Doctorは国外でも見ることができる。多くは医介輔のように僻地での一次医療、公衆衛生、母子保健、産業保健、臨床検査等、各分野で役割を担っていた。また、医介輔を含めた沖縄の保健人材確保の経験を、国際協力の場での実践に結びつける研究をされている先生もいらっしゃる。戦後沖縄のプロセスが日本のもつ知恵として、今後国内・国外へ活かされるのではないかと期待している。


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Last modified on 2003/07/18
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