島国日本には6847個の離島が存在し、うち有人島は423個である。その中でも有数の島面積や人口などをほこる屋久島と対馬を比較し、将来的に は他の離島も含め、医療過疎地と言われる離島間の関わりや、本島との連携などについて考察するきっかけを作る。
地域医療。この言葉が言われ始めたのは日本ではまだ新しいという。
現代医学は病院に患者を閉じ込め、臓器や疾患にばかり目が行った医療を行い、患者さんが家庭の中で、地域社会の中でどのように病気を持って適応し生活して いくかについては、十分な配慮をしてないように感じられることがある。健康人にとっては病院は非日常的な場所であるし、病院内での医療はあくまでも病院中 心であって個々人の健康を中心にしているだろうか。社会生活、家庭生活、精神心理的要因、これらを無視して個人の生活はなく、よって、現代人の抱える身体 疾患もこれらの因子に大きく左右されるのだと考える。だからこそ、これら因子を総合的にふまえて、患者さんが個性を大切にしながら地域社会の中で健康に生 きるための、全人的医療が必要になってきているのではないか。そう考えたとき、地域の中で地域に根ざした医療をみてみたくなった。屋久島には139床の病 院が平成9年に開設された。しかし島内には、120年という長い歴史を持った診療所も存在する。昔ながらの地域医療を行ってきた診療所と、高度医療器機を 備える現代的病院が共存する島で医療の実際を見てみたく、今回屋久島を訪れた。
屋久島徳洲会病院
屋久島クリニック
屋久町栗生診療所
中村真由美(九州大学5年)
樋口華奈子(九州大学5年)
2002年7月17・18日 屋久島クリニック見学
19日 屋久島徳洲会病院見学
22〜25日 屋久島クリニック見学
26日 居宅介護支援事務所見学・利用者宅訪問
29日 屋久町栗生診療所見学
30日 上屋久町役場訪問
屋久島は、九州本島最南端の佐多岬から南へ70km、黒潮洋上に浮かび、「海上アルプス」といわれるように高い山々、原生のありのままの姿を残す 深い森、そこから沸き出る清らかな水、そして豊穣な海をもつ、日本で最初に世界自然遺産として登録された(1993年)自然豊かな島である。東西約 28km、南北約24km、周囲132km、総面積約503平方kmのほぼ円形に近い山岳島を成し、九州最高峰の宮之浦岳(1935.3m)をはじめ 1800m以上の山々が連なる。
「1年で400日雨が降る」と表現されているように日本でもっとも多雨な島で、雨量は山間部で年間8000 ̄10,000mm、山麓で 3500mm以上となっている。2日に一度は雨が降るといわれる、まさに雨の島である。我々が滞在していた間にも、朝方寒いなと目が覚めたら外は大雨なの だが、2 ̄3時間で止んでその後はからっと晴れていた日が多々あった。気温は温暖で、冬期でも平地では日平均で12度以上になるが、山間部は冬型気圧配置 を受けることがあり降雪を見ることもある。夏期は猛暑となるが、夜間は海洋性気候を有しているため涼しくしのぎやすいのが特徴である。また、夏から秋にか けて台風銀座といわれているように、多くの台風が屋久島近海を通過する。我々の研修期間には2度、台風の直撃を受けた。屋久島の生活は豊かな自然と共有し また、自然の猛威と闘っている、ともいえるであろう。
屋久島はそのほとんどが険しい山からなり、各町村はその裾野のわずかな土 地に発達してきた。現在は、島の北半分を上屋久町、南半分を屋久町と大きく2つの町に分かれている。その中に24の集落が存在し、島の沿岸に沿って舗装さ れた道の沿道に間隔を置いて各集落が並ぶ。
島内総人口は約1万3000人余、過去には2万4000人が住んでいたことがあったが、わずか4.5%の農地と一時期盛んだった林業も縮小の状況 に置かれて生活手段を失い、過疎化の一途をたどった。
屋久島内には病院が1つ、診療所(医院)が7つある。島内唯一の病院は、平成9年にやっとの思いで建てられたということもあり人々のなみなみなら ぬ思いがこめられているという。徳洲会屋久島病院である。屋久島で一番大きな町に、海を見下ろす6階建ての清潔感あふれる美しい外観である。 大自然にあふれる島、癒しの島である屋久島では、人々は自然を大切に、仲良く調和して、一体となって、いのちをもらい、生活をしているように見えた。その ような自然な流れの中に身をまかせる人々が自然の中で癒され、自然の中で癒しを行う。少なくとも、この病院の外観は、そのような自然の中で癒しを行ってい るのだろうと思わせるものだった。
診療科目は、内科・外科・小児科・整形外科・産婦人科・脳神経外科・耳鼻咽喉科・眼科・泌尿器科・神経内科・リハビリテーション科・歯科口腔外科の12 科。その中で、毎日外来診療が行われているのは内科・外科・産婦人科・歯科口腔外科・小児科の5科である。つまり、常勤の医師がいるのはそれら5科だけな のである。その他の科の専門医は週に2日の割合で、全国徳洲会系の病院(大阪の岸和田病院が多い)から派遣で応援がくる。
病床数内訳は、一般病棟が50床、特例許可病棟が35床、療養型病床群(医療31床、介護23床)の139床である。手術室が2室、分娩施設、 CTスキャナ、MRI、内視鏡機器、超音波装置、腹腔鏡手術器機一式、脳波計、関節鏡、X線撮影装置等の高度医療機器を備えている。外来患者数、救急搬送 件数、時間外診察件数はそれぞれ、月平均4000人、20〜30人、150〜200人程である。時間外診察の患者さんの離島ならではの特徴は、ムカデや虫 刺されが多いことである。救急ヘリ搬送一覧は表の通りである。
屋久島病院の島内唯一の病院としての第一の特色はやはり、“24時間あらゆるニーズに応える医療体制”を第一に掲げているところではないかと思 う。一刻を争う救急医療。いつ、どこで、誰が事故や急病に遭遇するか我々は予知し得ない。また、高度な救命救急医療を迅速に受けられるかが、生死を分ける ことさえある。屋久島病院では、高度な医療機器が24時間稼動し、各科専門分野医師だけでなく、救急医学に熟練した看護婦、検査技師等、チーム医療がおこ なわれているのである。
平成14年7月現在で透析患者数は35名(最大許容人数42名)、器械台数は15台を設置している。屋久島病院が建設され、もっとも喜ばれた患者 さんは透析患者さんといっても過言ではないだろう。それまでは、透析患者さんは鹿児島市内まで、透析治療の為に船や飛行機で週2〜3回通っていたというの だから。屋久島という離島ではあるが、屋久島病院開院時より臨床工学士が常勤しているので多種多様な治療法が取り入れられ施行されている。透析室スタッフ も充実し、平成12年6月からは夜間透析も開設された。また、世界自然遺産の島、屋久島というイメージやインターネットの利用等で、年々旅行透析も増加傾 向にあり(平成12年には21名)、透析患者さんも安心して屋久島の地を訪れることができるようになった。
その他、「地域医療部」という部が院内にあった。地域住民の方々に屋久島病院の医療・介護を広く知ってもらうことを目的としているそうだ。活動の 内容としては、院内・院外で医療講演・健康講座を開催し(現在は屋久島クリニックの岡先生が講演者)、わかり易く医療の説明をすること、人間ドックの案内 と受付窓口業務、企業健康診断の周知活動、転院による搬送サービス、院内ホール等での催しものの企画、等である。この地域医療部には、屋久島病院の患者さ ん全員のあらゆる情報が頭の引き出しにすべてインプットされているという驚異的な女性職員の方がおられた。その方は屋久島出身でもともとは島内で看護婦と して働かれていたそうである。屋久島病院が開設されて以来、地域状況を知り尽くした看護婦時代の経験を活かし地域医療部の仕事を担われている。彼女の情報 網はなみなみならぬもので、たとえコンピューターが壊れたとしても彼女がいるからこそ地域医療を行ううえで大きなメリットとなっているそうだ。
また、屋久島病院には介護保険指定事業の一環として居宅介護支援事業所ももうけられている。ここでは、要介護認定を受けられた方に対して、介護支援専門 員(ケアマネージャー)が面接し解決すべき課題などを分析し、サービスの原案を作成する。ケアマネージャー、利用者、その家族らが意見交換を行ったうえで ケアマネージャーは介護サービスを作成し、計画内容について利用者の同意を得、サービスを利用してもらった後、利用後の評価を行い、再度サービスの調整を 行う。我々は、ケアマネージャーが利用者の自宅訪問をして計画内容の確認をする作業に同伴させていただいた。ケアマネージャーは車で利用者宅を1件1件訪 問していた。中には独り暮らしの方もおられ、家で独り倒れていないか心配な部分も大きく、利用者数の多い中での計画内容の確認作業で訪問時間は数分なのだ が、近況を聞いたり元気な顔を見ると安心するとおっしゃっていた。訪問先のリウマチで手先の自由が利かない独り暮らしのおばあさんは、「ご近所さんが、毎 日、日に何回も声をかけに家に来てくれる。私に家の前を通るときに、おーいって声をかけてくれるんですよ。台風が来るっていうときも前もって雨戸に板をは り付けに来てくれて」と、笑顔でおっしゃっていたのが印象的だった。屋久島の方々は本当に温かい。結束感も強い。そう感じた一場面であった。
屋久島病院から南に車で約40分ほど走った静かな町(原)に、屋久島徳洲会病院のサテライトクリニックとして屋久島クリニックがある。我々は主にこのクリ ニックにて研修をさせていただいた。平日のスケジュールはほぼ以下の通りである。
7:30 宿泊地出発
8:00 屋久島クリニック到着
通所リハ送迎バス迎え出発
8:30 外来
9:30 通所リハ患者さん到着
12:30 昼食
14:00 外来
18:00 帰宅
「ここで一番遅れているのは疼痛管理・治療である」 屋久島クリニック医院長の岡進先生は今年5月に赴任されて以来、こう感じ続けておられるそうだ。岡 先生は外科を専門とされており、その専門性を生かし主にペインクリニック的な外科系の診療が行われていた。患者さんはほぼ100%近く高齢者で、ほとんど の患者さんは肩・腰・膝の痛みを訴えてクリニックを訪れる。それに対して硬膜外麻酔や針治療をしていた。岡先生は漢方や鍼灸などの東洋医学にも大変興味を 持っておられて、針・皮内鍼・漢方薬・マッサージを積極的に治療にとりいれているのだ。疼痛管理はまず、針治療から始めて、時に疼痛に効果のある漢方薬を 併用する。週に二日のペースでその疼痛管理を続けることにより、徐々に疼痛は軽減していくそうだ。中には針治療の効果がうすれ、痛みが取れなくなる人もい る。そのような患者さんには、硬膜外麻酔を行っていた。我々は仙骨硬膜外麻酔と頚部硬膜外麻酔を見学した。これは劇的に効くという。患者さんも、たとえ麻 酔が効いているほんの短時間だけでも痛みがとれると本当に楽になる、と大変喜んでいた。ある患者さんは整形外科のある病院にいって、腰の痛みを訴えいろい ろ検査をしてみたが、結局原因不明で片付けられてしまい、薬も効かないし肝心の疼痛を軽減してくれるような処置はしてもらえなかった、と屋久島クリニック を訪れた。その患者さんに対しても針治療を開始したところ、大きな効果があったと患者さんは喜んでおられたそうである。
屋久島クリニックは、医師(岡院長)1人・看護師5人・作業療法士1人・鍼灸師1人・ヘルパー3人・食事管理3人・事務員3人の17人構成で、通 所リハビリステーション部門も併設されている。通所リハとは介護保険指定事業のひとつで、利用者が有する能力に応じて可能な限り自立した生活が営むことが できるようにする場であり、作業療法やその他の必要なリハビリテーションを行うことによって心身機能の回復維持を目指すものである。屋久島クリニックが実 際におこなっていることは、朝大型バスで利用者を自宅まで迎えに行き、屋久島クリニック併設の通所リハ専用の大部屋にて、作業療法、リハビリテーション、 入浴、体操、ゲーム、歌、などである。利用者は、要介護者と要介護予備軍の2種類にわかれる。要介護予備軍は要介護認定を受けてはいないが、通所リハに週 に何回か来ることにより、お友達と会ってお話や遊びを楽しんでいる。また、独居の方が多いため、寂しさを紛らわせる場所にもなるし、健康をそれぞれが確認 できる場所でもあるのだ。また、要介護認定をうけていないとはいえ、慢性疾患や疼痛を持った方も多い。そんな要介護予備軍の方々は、通所リハに来ることに よってクリニックのほうで診療を受けてもおられるのである。また、屋久島の公共交通手段はバスしかないが、バス代は大変に高い。交通手段を持たない老人に とって、通所リハが持つ送迎バスは大変ありがたいものだそうだ。
以上述べたように、岡先生がクリニックに赴任されてからはペインクリニック的診療と通所リハの利用者の増大で、一日あたりの外来患者+通所リハ利用者数 7月末現在で80人を超えた。岡先生の赴任前は1日あたり10数人程だったので、爆発的な増加率である。これは、患者さんの疼痛管理がいかに求められてい たかがわかる。今後、屋久島クリニックは患者数増加に準じて、クリニック増設を計画しているそうだ。
徳洲会系の病院・クリニックのほかに6つの診療所(医院)がある。その中の一つ、栗生診療所にて一日見学をさせていただいた。栗生診療所は、屋久 島の中心的な町である宮之浦(ここに屋久島病院がある)からぐるっと南西に車で一時間ほどまわった栗生という集落にある。栗生の医療の歴史は明治15年、 120年前に川村精輔医師が診療所を開業したことに始まる。川村精輔医師は現在の日置郡金峰町の出身で、明治末期までの約30年間栗生や中間の医療に尽力 つくした。川村医師引き上げ後は、大正から昭和初期まで嘱託医として医師7名を雇入れたと記録がのこっている。昭和初期から終戦後までは出張所を開設し代 診医制をとったと思われる。そして昭和24年、現在の栗生診療所は区営診療所として開設された。県立病院産婦人科医師の派遣が開始され、最初は民家を借り 受け診療していた。戦後の混乱期はまず食べることに困る時代の診療所の開設。栗生での医療に対する熱意がうかがえる。その後町立に移管して約30年がたつ (昭和44年、屋久島栗生へき地診療所と診療所名が変わる)。その間、県医師会によるスタッフ、鹿児島大学第一内科からの派遣医師(1ヶ月交代)、華僑大 学の里先生(11年間)らが任務をまっとうされてきた。そして平成8年からは藤村憲治先生が診療所長として活躍されている。我々は今回、藤村先生にご指導 いただいたのである。
栗生診療所の診療時間は月 ̄金曜が8:30〜0:30 14:00〜17:00 土曜が8:30〜12:00である。藤村先生は放射線科・内科が専門 で、診療も内科的。患者さんとのおしゃべりをしている間に血圧測定、聴診等をすばやくこなされていた。会話の内容がこれまたとてもほのぼのしている。釣り に行って何が捕れた、釣りにいつ行く、畑で何が採れた等である。患者さんはご近所のおじいちゃんおばあちゃん、という感じでお互い遠慮がない。双方が自然 体なのである。我々は午前中このような診療風景を見学させていただいた。
診療所内は想像していたより広く、設備も整っていた。藤村先生が放射線科専門ということが大きく反映されていたのだが、ヘリカルCTが設置されていたこと が驚きであった。その他、電子内視鏡(胃ファイバー・大腸ファイバー)・超音波・X線透視装置等の主要器機が保有されていた。また、鹿児島大学からの応援 があり月2回耳鼻咽喉かの外来がもうけられている。診療所スタッフは医師(藤村先生)1人・放射線技師1人・看護婦6人・医療事務1人・事務2人の計11 名。病床数は2床で、一泊の救急患者は受け入れられる体制となっているが、高次救急患者はほとんど鹿児島に送る、とのことである。休日診療については、医 師会加入診療所間で協力して在宅当番を決め、休日でも島内のどこかの診療所に医師がいるという形をとっている。患者さんがゼロになるのは2年に1回くらい だそうだ。休日でも夜間でも患者さんは先生を求め診療所を訪れるのである。藤村先生の自宅は栗生診療所に隣接して建っているのだ。
遠隔医療について質問したところ、現在準備段階で、鹿児市内の主管病院と一度画像を送りあってはみたがもう少し改善の必要性がある、とおっしゃっ ていた。藤村先生は前述のとおり、放射線科専門であった経験を生かされているため、画像診断に関してはそれほど問題にはならないそうだ。「遠隔医療と言っ てはいるが、それは都市部の大病院を主観にした医療であって、あくまでも都市部の病院から見た視点である。こちら(僻地)にとっては遠隔医療なんて遠隔で もなんでもない。時には多数の先生のオピニオンが必要になることもあるだろう。しかし、ただ画像を送り診断を求めるというのは医療では無い。画像を送って も、それを送られた側もとても忙しい。画像を送ってすぐに意見をもらえるものではない。結局は画像を送られた相手側の都合に合わせて患者さんが左右され る。今ここで、一番求められているのはそんなものじゃない。我々は、今ここで人材を求めている。遠隔医療の発展を―と言うぐらいなら、人をよこして欲し い。患者さんにとっても、目の前で自分を診てくれ治療をしてくれる人、そんな人が必要なんだ」と。
午後は藤村先生と看護師さんの2人による訪問診療について見学させていただいた。診療所まで来所するのが困難だろうと思われる患者さんを藤村先生 が判断し、週に1度患者さんの自宅に往診しに行くのである。我々は、藤村先生のご配慮で、訪問診療を行ったある患者さんのお宅におじゃまして、2時間ほど お話しする機会を得た。 「藤村先生は、夜中でも、いつでも電話すると家まで飛んできてくれる。安心していられる」と、在宅酸素療法を行っているその患者 さんは笑顔でおっしゃっていた。屋久島は台風のめっかである。「台風が直撃しそうな晩には藤村先生が来てくれて、停電の可能性もあるからと充電式の酸素療 法器機の説明をしに来てくれた、まえもって説明はうけていたんだけど、また確認しにきてくれた」とのこと。
また、「夜中に呼吸困難になり藤村先生に連絡すると、このときも飛んできてくれた」そうである。「往診じゃない日にも、近くを通ったから来てみた よ、と会いに来てくれて、私(患者さん)は夕食中で食卓についていたけど、先生は私の背後に回って聴診するんですよ。私は右手にはしを持ってね」と。診療 所内だけでなく患者さんの家庭内においても、お互いの遠慮は感じられなかった。このような患者さんのお話だけでなく、実際に訪問診療中の藤村先生と患者さ んの言葉のキャッチボールややりとりをみていると、実にからっと医師が地域住民の生活の中に入り込んでいて、そのほのぼのとした空気が我々にとってもとて もここちよいものであった。
患者さんはこうもおっしゃっていた。「屋久島病院ができましたが、あの病院に行ったことはない。あそこは家から遠い。私には近くに私のことをよく わかってくれている先生がいる。藤村先生がとんで来てくれる」と。藤村先生のことを信頼しきっておられる気持ちが現れていると感じた。またこうもおしゃっ ていた。「それに、救急じゃなくても何か大きな検査を受けるときには、屋久島病院には行かずに藤村先生が紹介してくれる鹿児島の病院に船に乗っていく。私 は昔からそうしてきたのです」と。屋久島病院まで車で1時間ほどかかるとはいえ、海を渡って鹿児島に船で行くよりははるかに近く便利なはずである。結局は 医師との信頼関係で成り立っているのが地域医療なのだなと強く感じた。また、訪問診療の帰り道に車で移動中も、農道等ですれ違う住民の方々はみなさん、藤 村先生だとわかると「おーい!先生!」と手を振り、先生も「元気か〜?」と声をかけていた。そのやりとりが、自然あふれる屋久島の光景に実によくマッチし て馴染んでいて、とても温かいものを感じた。
藤村先生は平成8年に栗生診療所長になられて以来、住民の健康維持と地域医療の充実に尽力をつくしておられる。介護支援専門員(ケアマネー ジャー)の免許を持っていらっしゃるし、平成12年には明治以降の屋久島西部地区医療の概要を含め栗生診療所要覧を作成されている。先生はおっしゃられて いた。
「地域医療をしたい、何がしたい、という自分本位の考えだけでは本当の地域医療はやれない。長続きもしない。結局は地域から僻地から離れていっている。 医師とはいえ、その地域に住み生活するひとりの人間なんだ。人は一人では生きていけない。その土地で一人で生活することはできない。最近は屋久島に魅せら れ移住してくる人も多いが、新たな土地に移り住み、地域になじまず孤立した生活を送っている人は結局その土地の人間になりきれていない。地域の住民の中に 入っていかなければ。地域と一つになる努力や協力が不可欠なのだ。だから、地域医療を本当にしたいのなら、考えて考えて、“住む決意”をしなさい。“想 い”だけではだめだ。では、私が “決意”するためにどうしたか。その栗生という地域を知ろうと考えた。そして歴史を学び、地域性や住民性を知る努力をした。知って理解した上で、決意し、 私もここの住民として生活することにした。医師としてこの地で生活するということは、住民や患者が地域社会の中で健康に生きるためのケアと教育を担うとい うことである。それが医師のなすべき仕事であり使命である。とはいえ、住民の健康的生活は私一人がつくり上げられるものではない。医師一人がすべてを変え ようとしてもできない。だから、教育が必要なのである。私は住民をよんで健康講演を繰り返し繰り返し開いた。住民と一体になって、教育を行うのだ。その教 育を担うのが地域医療を充実すべく医師の仕事なのだ。私は医師です。しかし医師が住民皆さんの生き方や健康をどうこうできるものではない。いかにして豊か な人生を送るのかと、ひとりひとりの意識変革が一番大切なのだ。」
「今の時代、死生観を持たない人がほとんどだ。豊かな死を想像してみなさい。誰しも自分の家の畳の上で死にたいと願っている。私はそれをみとりたいのだ よ。」
この最後の一言が、今も私の心に深く響いている。地域医療の本質を覗かせていただいた思いでいっぱいである。
M3 中村 真由美
樋口 華奈子
(他参加者M3 田中 俊江、本村 良知、森 桂、森 恩 )
8月16日(金) 福岡発
17日(土) 対馬比田勝着〜上対馬病院〜中対馬病院〜対馬厳原病院〜老人保健施設結石山荘〜診療所見学
18日(日) 観光、対馬厳原発、福岡着
北は朝鮮海峡を隔てて朝鮮半島に面し、南は対馬海峡を隔てて九州本土に面している対馬は、南北約82km、東西約18kmの細長い島である。面積 は704.94km2で、佐渡島、奄美大島に次いで全国第3位という広さを持つ。
福岡までの距離は約147kmであるのに対し、韓国へは約49.5kmの距離にあるという対馬の歴史は古く、史書では魏志倭人伝の昔にさかのぼ る。昔から海の民として漁業を生業とし、海を生活のメインとする漁村のシステムが確立されていた。しかし島の殆どは山野であり、また海岸線はリアス式に入 り組んでいるため、各漁村同士の交流は難しく、部落として点々と存在している村々の交通は主に小船で海を渡る他になかった。
それでも対馬は豊かな島だったため、藩政期には3万人だった人口はS35ごろには7万人ほどにもなった。しかしそのころをピークに、農村の崩壊、そして 引き続く漁村の崩壊により人口は激減してしまう。 現在は人口約4万5千人、高齢者率も22%と高い値をとっており、医療充実度が益々必要とされているが、未だに病院(診療所)をもたない部落が存在してお り、さらに地形的な問題によって救急車の搬送が40分もかからざるを得なかったりするなど、救急搬送や高齢者の通院にも多くの問題を抱えている。
今回の研修では、S58年から10年間、対馬の地域医療のためにご尽力された森俊介先生に案内して頂いた。森先生は対馬いづはら病院で整形外科医として勤 務されるかたわら、各部落を回って医療の啓蒙にも努め、毎週健康教室を開いて住民の健康増進のために邁進された。その健康教室の開催回数は、のべ1000 回という驚異的な数字をほこる。その後、長崎県立諫早病院の院長などを務められた後、現在は長崎ウェスレヤン大学の福祉コミュニティー学科の教授と長崎大 学医学部の非常勤講師を兼務され、対馬をはじめとする新しい離島医療システムを構築するというさらに大きな事業に取り組まれている。
対馬について詳しく述べる前に、まずは長崎県の離島医療について説明しなくてはならないだろう。
長崎県は、大小約600の島々(有人島は59)があり、日本で最も多くの島を抱える県である。かつて地理的・経済的に不利な条件にあり、医療も本土との 間に大きな較差があった。
S35年頃より長崎県(特に衛生部)は、離島の保健医療を充実させ本土並みに向上させるためにプロジェクトチームを作り、これまでの離島の市町村が主と して行ってきた病院経営・診療所経営と、県が別の立場で行ってきた保健医療を一体化し、限りある医療資源、医療財政の中で、国の財政的な支援、県と市町村 の効率的な財政負担の分配を行い、良質な地域医療を展開するための「医療圏」構想を立てた。
まず、各圏域(上対馬、下対馬、上五島、下五島など)の基幹病院の整備と医療の充実を図るため、施設の老朽化の解消や増床を行った。しかし医師の慢性的 不足は解消されず、また経営面でも不安定な状況にあった。そこで、「医療圏」構想の仕上げとして、「長崎県離島医療組合」を県と関係市町村が一体となって 設立し、医療施設の経営を広域的に処理することとし、この際、長崎県医学部、医師会、国立病院など関係機関との連携、協力を一層強力に進めることにより、 医療施設の充実、医療従事者の確保を図り、離島の医療問題の積極的解決を図ることとした。県ではS42年12月議会で、関係1市17町3村ではS42年 12月〜S43年3月13日に許可申請、4月1日付けで自治大臣許可を得た。
その後医師不足の解消のため、S45年4月長崎県医学修学資金貸与制度を創設、S47年4月自治医科大学派遣制度を創設し、またS49年10月離島医療 医師センター事業が発足して、離島の保健医療の充実が進められていった。
離島医療の充実をはかるためには、なにをおいても医師を確保する必要があり、S45年4月長崎県医学修学資金貸与制度、S47年4月自治医科大学派遣制度 が創設された。これらの制度は、医学部在学中に奨学資金の貸与が行われ、卒業後は奨学資金貸与期間の2倍あるいは1.5倍の期間をもって、離島における病 院・診療および本土の公立病院の勤務することを義務付けられるものであった。
第1期生はS51年に卒業し、2年間の国立長崎中央病院におけるスーパーローテート方式の初期研修を終了した後、S53年4月に長崎県離島医療圏組合病 院に赴任した。多くの養成医師が、離島の地において住民を主体とした地域医療を展開し、大きな成果をあげていった。 現在も離島医療に従事する医師のほとんどが自治医科大学出身である。
対馬には、長崎県離島医療圏組合(後述)に加盟している総合病院が3つある。北部にある上対馬病院、中南部にある中対馬病院、南部にある対馬いづ はら病院である。(図1)
開設はS43年、対馬の最北端に位置する一般病床数95床(うち、CCU1、NICU2、ICU3、準ICU3、特別室2を含む)、職員数124人(う ち、医師7名、助産婦4名、看護師56名、PT1名、OT1名含む)の病院である。医師の専門は内科3、外科2、小児科1、産科1であり、以前は加えて整 形外科医が一人いたが、4月から0人となった。その他の診療科は現在、精神科、眼科、泌尿器科、神経内科にDrが週一回派遣されて来ていて、整形外科、皮 膚科、脳外科は休診状態である。
上記を見ても分かるとおり、最も大きな問題は医師の確保である。例えば脳外科のDrは対馬中南部にある中対馬病院と兼任であるが、2病院間は車で2時間も かかってしまうほど離れている。また、それ以外の派遣医も、対馬南部にある対馬いづはら病院や、国立病院長崎医療センター、福岡大学病院外科などに応援を 頼んでおり、医師の確保が極めて困難な様子が明らかである。その中でも特に問題なのは現在の整形外科医不在であり、住民からの大変強い要望が絶えないにも かかわらず整形外科医確保のめどがたっていない状態となっていて、病院側も大変頭を悩ませている。
また、経営の問題も大きな課題として残っている。
対馬は南北に長い島であるが、中心地はかなり南部に偏っている。そのため、残り二つの総合病院はここから道なりに100km近く離れたところにしかな い。その分、対馬の約半分の面積を担わなくてはならないという使命もあるが、逆に北部は過疎状態であり、さらに患者さんが南の都心部へと流れていくため患 者数は多いとは言えないそうだ。(例として、全身麻酔による外科手術は年間30例、分娩は年間70例)そのため、県から年間1000万円の赤字を補填して もらっている状況である。
しかし、対馬北部の医療を担っているのはまさに上対馬病院である。そのため、二次救急、人工透析、リハビリテーション、人間ドッグ、学校医、住民検診、 といった医療サービスを提供し、訪問介護ステーション、在宅介護支援センター(運営委託)を併設して地域包括医療を実践している。
S13年に設立されたのち厚生省管轄となり、S30年ごろは国立対馬病院という名称で対馬最大規模の医療を担っていたが、平成12年に離島医療圏組合に 加盟したと同時に中対馬病院と改称された。
病床数は139床(一般90、療養37、結核8、感染4)、医師数9名(内科3、外科2、皮膚科1、眼科1、小児科1、透析1)である。また、派 遣医としては脳神経外科、耳鼻咽喉科、整形外科、泌尿器科、循環器科を同じく国立病院長崎医療センター、福岡大学病院、いづはら病院に要請している。
ここで日常的に行われている治療としては内視鏡的治療、高圧酸素治療、デルマレイ、腹腔鏡手術といったものがある。対馬で最大の対馬厳原病院とは5km と離れていないため患者の確保が難しい面もあるが、対馬空港に最も近い病院として、また最も古くからある総合病院として対馬の中核病院の一つを担ってい る。
S43年に設立された、病床数208床(一般158、精神50、ICU8、NICU2、人工透析13含む)、職員数262名(うち、医師23名、 看護師145名含む)の、対馬最大の総合病院である。診療人口は42000人とも言われ、規模、機能ともに対馬医療の中枢を担っている。
日本外科学会認定医制度修練施設、日本整形外科学会認定制度研修施設、日本外科学会専門医制度研修施設にも認定され、また僻地中核病院、救急告示指定病 院(二次救急)、老人性痴呆疾患センター、地域災害医療センターにも指定されている。 対馬いづはら病院で特筆すべきことはなんといっても遠隔医療システムであろう。これは改めて章立てをして記載したい。
離島という地理的に不都合の多い地域は、あらゆるネットワークやシステムを構築して、より質の高い医療を提供する努力を行っている。それが遠隔医療シス テムである。一口に言ってもさまざまなものがあるが、ここでは対馬いづはら病院が行っているものを例にとる。
現在のヘリコプター搬送システムは、長崎県、離島市町村、海上自衛隊、国立大村病院(現在の国立病院長崎医療センター)など関係機関の協議にて開始された 「しまの救急患者輸送確保対策事業」により構築された。最初はS35年に海上保安庁のヘリコプターにて未熟児の搬送を行ったことに始まる。当初は、未熟児 等の搬送が主体で年間20件程度であった。1986年以降から年間搬送件数は100件を超え、最近では150件前後になっている。
対馬の患者の搬送は、国立長崎中央病院(現在の国立病院長崎医療センター)へが多いが、飯塚の脊髄損傷センターなど、福岡への搬送実績もある。(図2)
例えばフェリーだと福岡―対馬間は147km、約4時間かかるが、ヘリコプターだと対馬から脊損センターまで約15分である。その圧倒的な機動力によっ て、ヘリコプター搬送システムは遠隔地搬送に大きな貢献をしている。
心筋梗塞患者には、バルーン治療といわれるPTCA治療(経皮的冠動脈形成術)を施すが、いづはら病院では、設備の不備や医師不足などから行っていな かった。心筋梗塞は 死亡率が高く、素早い治療が必要とされ、96年までの3年間の死亡率は15.8%だった。 1997年7月から、福岡徳州会病院(福岡県春日市)との間で、島内の心筋梗塞患者の緊急治療などに通信画像を活用した遠隔医療システムを運用。これまで に62人の治療を行い、死亡ゼロの成果を上げている。このほど東京で開かれた第4回僻地・離島救急医療研究会でも報告された。
画像伝送システムの応用である。現在はNTTの総合デジタル通信回線(ISDN)で対馬いづはら病院と福岡徳州会病院を直結し、いづはら病院の心臓カ テーテル治療室から患部の画像を徳州会病院のモニタールームの送信、その画像をみた専門家が助言を行っている。
福岡徳州会病院はH9年7月に、PTCA遠隔治療を世界初の134例行ったと発表した。(うち1例死亡)それ以降、熱海徳州会などがPTCA遠隔 治療を行っている。(図)
長崎県の離島医療はこのような多くの苦労と努力の上に、現在日本でも指折りのシステムとして、日本のその他の地域のモデルとなりまた年々改良されなが ら、地域住民の健康を担っているのである。
今までは病院について記載したが、医療を支える施設は病院だけではない。高齢化率22%という対馬では、老人保健は重要な課題である。
介護保健制度は対馬総町村組合が運営しているが、介護保健サービスの種類はさまざまなものがある。例をあげると、在宅介護をサポートする居宅介護支援や 訪問介護、訪問看護、さらに福祉用具購入費や住宅改修費の支給といったものや、施設に通う通所介護(デイサービス)、通所リハ(デイケア)、さらに施設で 生活をする痴呆対応型共同生活介護(グループホーム)や介護老人福祉施設(特別養護老人ホーム)、介護老人保健施設(老人保健施設)、短期入所生活介護 (ショートステイ)といったもの、病院に併設されている介護療養型医療施設(療養病床等)などがある。
今回の研修では、このなかでも上対馬町にある慶長会 老人保健 結石山荘を訪問した。ここのサービスは通所リハ、ショートステイ、介護老人保健施設である。スタッフは介護士、看護師、PT1人、OT1人であ る。
介護老人保険施設(老健)は中間施設と言われるが、中間施設では3ヶ月ごとのケアプランを組むことになっている。費用は月4万5千円〜5万円で、 介護保険により1割負担となっている。生活保護を受けている人は無料にしている。本来介護保険は地域差が無く一定であるが、福岡市の老健はこれより若干高 くなっている。それは都会という付加価値や、追加サービス料金が付いているからだそうだ。結石山荘での部屋代は、個室が500円/日、2人部屋が250円 /日である。
利用者数は、デイケアには一日10人、入所者はショートステイも含め80人ほどで、さらに40人が空きを待っている状態である。3ヶ月ごとのケアプラン であるが、実際はなかなか回転せず、この空き待ちの方々をどうするかが目下の課題だそうである。そのため、地域によっては在宅介護を薦めたりしている。入 所の条件は介護認定を受けていることで、現在の入居者の介護度は3と2で、平均して2.5となっている。(余談だが、特老は4ぐらいである。)平均年齢は 84才である。
現在の老人介護は簡略に図示すると、「病院や特老⇔中間施設(老健)→自宅」という形になる。つまり、病院や特老に一旦入った老人は、状態がよくなると 老健などの中間施設に移される。しかしそこから自宅に帰る人は少なく、長期にわたって老健に居続けたり、再び病院などに逆戻りしたりするのである。そのた め、いつまでたっても施設の飽和状態は解消されないことになってしまう。
その解決策として、いかに老人を家に帰すかが鍵となる。それには、訪問看護などの居宅サービスを充実させることが必要であろう。またそれだけではなく、 規模の大きくない少人数の受け入れ施設、具体的にはグループホームのような、5〜9人での共同生活をしながら介護スタッフによる食事、入浴、排泄など日常 生活の支援や機能訓練をうける施設を増設することも考慮すべきであろう。
対馬の高齢者率は現在の日本平均よりは明らかに高い。しかし、視点を変えれば対馬の現状は日本全体の未来の姿を表しているとも言える。離島での老人医療 を考えることは、決して遠い場所での話ではない。私たちにも切実に関わっている大きな問題なのである。
上対馬病院を見学したときの話であるが、偶然、長崎県医学修学生ワークショップという集まりが開催されている場所に遭遇した。これは、学生の離島医療へ のモチベーションを高めるために年に数回開催されているもので、自治医科のDrや在島の保健師・看護師・行政事務の方々がアドバイザーとなって、学生同士 のディスカッションや発表会を行い、離島医療の現状と問題点について考察を深めてもらうものである。自治医科大学に通っている長崎県の奨学医学生・看護学 生は義務参加ということになっている。離島医療に従事しようとする医学生、看護学生が慢性的に不足している現状の打開策としての一つの試みである。終始に ぎやかな雰囲気で、「離島医療の問題点とこれからの可能性」について議論する様子を見学することができた。
いままでは私たちが体験してきたことを中心に述べたが、ここでは文献やデータを示すことで対馬医療の現状について述べたい。
対馬についてのデータを見ると、平成10年の段階で長崎県離島医療組合8病院(上対馬病院、対馬いづはら病院、有川病院、上五島病院、奈良尾病院、奈留病 院、五島中央病院、富江病院)の病床総数は970床(S43年比150%)、医師総数97人(S43年比294%、うち養成医師43名)、職員総数は 747人(S43年比193%)となっており、またS43年から平成10年の間に離島の人口はほぼ半減しているが、入院総数は30万6000人(S43年 比167%)と増加している。
施設、設備は、病院がS52年以降に全て新築され、医療設備は超音波診断装置、電子内視鏡、ヘリカルCT、MRI、内視鏡下手術機器、オーダリングシス テムなど最先端の医療機器が導入され、また画像伝送システムによって、常時Tere-radiologyの利用が可能である。医療の質についてもめざまし い発展があり、充実した地域医療はもとより、2次医療から一部の3次医療までが展開されるようになってきている。Tere-PTCA(対馬いづはら病院) や脳外科疾患を中心とした救急患者のヘリコプター搬送などは離島にいながら本土並みの医療が展開される時代になった。
しかし、前述したように、問題点も数多く残されている。それは慢性的な医者不足、住民の高齢化・過疎化、交通網の不便さなどである。これらは医療 界だけではなく、行政的なサポートが必要となってくる面もあり、これからの重要課題として真摯な取り組みが望まれている。
H16年、町村合併によって対馬の各町は合併して対馬市になる。このことでにより、病院間での収入の格差を是正することになる。現在いづはら病院のみ黒 字で他は赤字のため、その赤字補填にいづはら病院での黒字分を回すことにするのである。 また、町村合併に際して250億円の予算が国からおりる。その予算を使って、対馬全体の検診情報を一手にまとめる検診センターをつくる予定になっている。 そこでは全島の基本検診(血液、尿、腹部エコー)の情報を蓄積、共有することで、検査データの重複を減らす目的となっている。現在の制度では各病院ごとに 検査をする仕組みになっている。そのため複数の病院にかかっている場合は、基本的な検査も重複してしまうからである。また、研究目的にも役立つことが予想 される。例えば対馬にはHTLVが優位に多い。そういった地域集積性のある疾患に関して膨大なデータが一箇所に集まっていれば、非常に意義深い研究ができ る可能性がある。
また、医師派遣に関しては長崎大学では「医局派遣をやめよう」という動きが出てきている。例えば現在、九州大学に入局する数は160人いるが、長崎大学 に入局する数は定員の6割程度しかない。そうすると都心部にばかり医者が集中し、離島といった過疎地にはますます医者が減少してしまう。そのためには、医 局をこえて北部九州内で医師派遣ができる組織づくりを進めて、医療の不均衡を是正しようとする考えである。さらに、島内病院をオンライン化してネットワー ク構築しようとする動きもある。二次医療圏としていづはら病院を中心とする流れである。次に詳しく説明する。
郵政省が推進するマルティメディア・パイロットタウン構想に基づいて、通信・放送機構、長崎県、厳原町、対馬いづはら病院等が共同研究者である三菱 電機株式会社の協力を得て、厳原町をフィールドに在宅介護支援システムを利用して病院と在宅療養者などを接続し、実際の利用を通じて運用データの収集と分 析を行い、マルチメディア医療のモデル実験を行う。
ISDN回線、アナログ回線、無線回線を利用したマルティメディアネットワークを構築し、病院や出張診療所端末と、在宅療養者宅を接続して、テレビ電話 による問診やバイタルセンサーによる体温、血圧、脈拍、心電図等や、手入力による体重、体脂肪、歩数、尿検査結果等在宅療養者の基礎データを収集して、医 師が在宅療養者の容態を迅速かつ的確に把握できるようにする。また、これらの医療情報について、医師、看護師、在宅療養者、在宅療養者の家族等それぞれに 対応したデータの保護を行ったセキュリティ管理を行う。
在宅介護支援センターや社会福祉協議会などの施設に設置した医療情報端末と、保健婦やホームヘルパーが訪問した際の介護支援や、在宅介護支援センターの 介護士や病院の医師からのリハビリ指示などのできるようにする、併せて、これらについてのセキュリティ管理を行う。
在宅医療支援情報などのデータベースとも連動した、一般住民の健康管理データベースを構築し、公民館などでの集団検診データの自動入力や管理が出来るよ うにして、医療機関や福祉機関が随時参照できるようにする。また、住民への保健指導や各種統計資料の作成にも活用し、併せて、これらについてのセキュリ ティ管理も行う。
病院側では
・ 在宅療養者の健康状態を詳しく把握して、診療に役立てることが出来る。また、出張診療所から病院への検査結果の照会や、医師同士の協議による適正診断が期 待される。
・ 日常の健康データの管理が楽になる。
在宅療養者宅では
・ いつでもお医者さんの顔を見ながら安心して医療相談ができる。
・ 自分の体調データも簡単に計測・入力でき、体調の推移も確認できる。
・ 機械は指で画面を触れる使用方法で、難しい操作は必要ない。
以上が現在構想されているマルティメディア・モデルである。これらのさまざまな例のように、対馬の離島医療は常に新しい可能性へ模索を続け、実践を積み 重ねてさらによりよいものへと変化し続けている。そしてそのときに行政や企業といった多くの共同者が存在することが、質の高い医療を提供する上で大きな支 えとなっているであろう。
対馬=漁村のシステム。つまりそれは農村と違い、外からの人間を受け入れる社会である。対馬の医療を考える際、「相互扶助」という言葉がキーワードとして 浮かび上がってくる。そしてそれはおそらく、わたしたち本土に住む者もけして他人事ではなく、よりよい医療を築く際の方向性の一つとして考えておくべき事 柄であろう。
比較と一口で言っても切り口は本当に多様であると思う。よって、この場では私たちが今回感じてきた、私たちの意見を述べようと思う。この報告書を読んで興 味を持った学生は、ぜひ多くの島々を訪ねて行ってほしい。そして自分の目で感じ、肌で感じて自分なりの考察を深めていってほしい。これが今回、未熟ながら も初めて複数の島を訪問して比較するという活動に挑戦した私たちの切なる願いである。
例えば今回の研修で言うと、屋久島は鹿児島県に属していて、総合病院を持つという意味で離島医療を担っているのは私立である屋久島徳州会病院で あった。ヘリコプター搬送や夜間の二次救急を一手に引き受け、本土並みの高度医療を提供しようとしている姿勢はとても意味のあるものであろう。また、医療 はサービス業であるという姿勢を徹底し、まるで企業のように朝の訓示を全員で唱えるなど職員の統制がとれている様子は私立病院ならではのものだと思った。
しかし、地域の住民の生活に真に根ざし、昔から住民の健康を支えてきていたのはやはり診療所であろう。今回私たちは、まるで赤ひげ先生のように地域の住民 から慕われている医師を見た。慢性の苦痛を抱える老人たちが、楽になった、安心したと言って笑顔で帰っていく様子を見た。急を要する病気ではないのかもし れないが、しかし健康を害して日常生活で困難を抱えているときに患者さんの苦しみを少しでも楽にしていけるのは、やはり気軽に通える診療所であった。そう いう意味では、診療所の重要さはやはり大きいものがある。
その点で言うと、私立の総合病院と公立の診療所ではまだまだ連携の不十分さ、お互いを理解しあう姿勢の弱さを感じざるをえなかった。また、保健所などに話 を聞いても、はっきり書くと「徳州会はなにするものぞ」といった、情報や協力体制の不透明さ、弱さが垣間見える場面が多かったかもしれない。
その面から比較すると、対馬は長崎県に属しており、離島医療は主に公立の病院の担うところが大きい。この私立と公立の違いは県ごとの政治的問題も絡んでく るそうなので深くは述べられないが、この体制の違いで現れてくる医療の姿も違うような気がする。 長崎県の離島医療は日本国内でも指折りのものだそうだ。インターネットで「離島医療」を検索しても長崎県が本当に多くヒットする。それは長崎県が多くの離 島を抱えており、離島医療に関して古くから県を挙げて取り組んできたからである。そのため「離島医療圏」といった枠組みがきちんと出来ているし、遠隔 PTCAやネットワーク構想など、新しい試みがどんどん実践されている。病院―診療所連携も比較的スムーズだと思った。ただ病院―診療所連携については、 現在多くの診療所が総合病院からの派遣医ということも関わっているのかもしれないとも思う。今回は日曜日だったため、診療所の医師に話を聞く機会が無かっ たのは少し残念だった。
その分、今回の研修では総合病院の院長、副院長や、医療センターの総合診療部長など重要なポストを占めるDr方のお話をたくさん聞くことができた。そのと きに一番驚いたのは、全ての先生方が離島医療に対して本当に誠心誠意取り組んでいたことだ。問題も多く抱えているであろう大変な離島医療という分野だが、 全員が自分の問題、使命だとして自分の全てをかけてとりくんでおられた。さらに驚くべきことは、今の現状に満足せず、さらによりよく新しい医療システムを 構築しようと意欲的に取り組んでおられることだ。実は彼らのほとんどは、前述の長崎県養成医師の初期研修生出身であるそうだ。彼らは医師になった当初から の精神を持ち続けることで、現在の長崎県の優れた離島医療システムを作り上げてきたのである。
「本気で離島医療に関わりたいと思う人が出てくるのは10年に一人でもいい。その一人の人の情熱が周りを動かし、大きな流れとなって未来に繋がっていきま す。」
と、あるDrがおっしゃった。
「でも、やはり同じ目的をもった仲間がいるのは本当に心強い。」 「ようやく今から、自分の理想とする医療を創り上げていけるんだよ。」
とまるで青年のような笑顔で語った先生方の笑顔が印象的だった。 今回私たちが訪れたのは屋久島、対馬の2島だけであった。しかし日本にはさらに多くの離島が存在する。毎年のように熱研の研修先にあがる島も壱岐や石垣島 などがあるし、他にも興味深い島々はたくさんあるに違いない。
例えば壱岐は、昔は医師が充足していたので離島医療圏組合には加盟していなかったそうだ。しかし近年、加盟を希望していると聞いた。壱岐が以前に は医師が充足していたというのは初耳だった。それは何らかの歴史的背景や地理的背景が関わっているのだろうが今回はその調査までは至らなかった。 また、未だに無医島であるところもたくさんある。屋久島の近くの小さな島では最近まで医者がいなかったが、近年屋久島で定年まで勤め上げた老医師が移り住 み、そこでの医療に一生を捧げる決心をされたという。 他にも、以前沖縄医介輔班が素晴らしい報告をしたように、独特の医療がなされている地域もまだまだ存在するだろう。あるいは沖縄では未だシャーマン的な存 在も大切にされているという話も聞く。
このように、一口に「離島医療」と言っても、その地理的条件、気候、風土、文化、歴史、そこに住む人々など多くの要素が絡まりあい、多様な形態をとってい るのだと思われる。そして医療を担う立場もさまざまであり、あらゆる角度からのアプローチが存在するのだと知った。その立場に優劣はないだろう。それぞれ の持ち場でそれぞれの役割を果たしているのだから。そしてそのようなさまざまなroleが絡まりあい、係わり合いながら医療の実態を形成している。そのと きにやはり重要になってくるのは、相互の立場の理解、そして協力であろう。一つの決まった形に統一するのは難しいし、また意味も無い。各地域の多様性はあ まりに大きいからである。そのなかで、各地域に合ったよりよい医療を考えていくこと、そのために立場の違いをよい方向に生かし「相互扶助」していくことが 重要なのではないかと感じた。そしてその上で、曖昧模糊とした「地域医療全体」をよりよいものにしていく方向性が見えてくるのではないかと思う。
最後に、今回お世話になった方々に深い感謝の意を表して、結びの言葉とさせていただきます。どうもありがとうございました。