去年1月28日、療養所への入所歴のないハンセン病元患者(回復者)と、入所者の遺族が熊本地裁に起こした国家賠償請求訴訟が和解に達し、入所歴のある回復者の訴訟で一昨年5月、同地裁が国の法的責任を認め、小泉首相が控訴を断念して動き出したハンセン病問題は、今回の和解により全面解決したと言われます。その後状況は、回復者の皆さんにとって本当に改善されたのか、見学や実習を通して自らの目で見てみようと思います
角南隆史 班長 (九州大学 医学部医学科4年)
桑内慎太郎 (九州大学 医学部医学科5年)
鷺山幸二 (九州大学 医学部医学科5年)
山本一博 (九州大学 医学部医学科5年)
中島誠子 (九州大学 医学部医学科3年)
西田有毅 (九州大学 医学部医学科3年)
吉川智子 (九州大学 医学部医学科1年)
岩瀧麻衣 (産業医科大学 医学部4年)
古賀幸子 (県立長崎シーボルト大学 看護栄養学部看護学科4年)
小池宙 (東京医科歯科大学 医学科4年)
7月29日 国立療養所大島青松園の見学
7月30日 坂出市立病院の見学
なお、7月8日には「いのちの初夜」(北條民雄著)の輪読会を熱帯医学研究会の部室で、7月20日には、ハンセン病と坂出市立病院に関する産業医科大学国際保健研究会との合同学習会を産業医科大学にて行いました。
大島青松園は、全国13ヶ所ある厚生省所管の国立ハンセン病療養所の1つで、香川県木田郡庵治町の大島にある。大島は高松港の東方約8km、四国本土との最短距離約1kmの、瀬戸内海に浮かぶ小島である。島の面積は、約61haで、ほとんどが大島青松園の敷地となっている。
大島青松園は、「旧らい予防法」によって、明治42年、「大島療養所」として、中四国8県(岡山・広島・島根・山口・徳島・香川・愛媛・高知)の連合立で香川県知事の管理する「第4区医療所」として発足した。(病床200床) 昭和16年に厚生省に移管、「国立らい療養所大島青松園」と改称(病床650床)、昭和21年には、「国立療養所大島青松園」と改称された。当初、入所者120名で開所したが、以後増加し、昭和34年には最大704名にまでなった。現在は186名の方が入所されている。
「らい予防法廃止に関する法律」により、国は入所者の療養に関する費用を全額支弁している。外来治療棟における1日の診療件数は、延べ500件である。病棟に入室して治療を受けている人は1日に25〜30名ほどである。現在、入所者全員のハンセン病の基本治療はすでに終了している。しかし、末梢神経障害を起因とする後遺症(手足の障害、視力障害、知覚麻痺など)、また高齢化に伴う合併症などがあり、現在も治療は行われている。治療内容としては、皮膚科、外科、整形外科、形成外科、眼科、耳鼻咽喉科、歯科、リハビリテーション科(理学療法・作業療法)のほか、内科、心療内科、婦人科、泌尿器科などの一般医療が挙げられる。職員は、260名で、看護士と介護員が多数を占める。
園内は、あたかも村落様であり、公会堂、老人福祉会館、売店、理美容室、郵便局、公園、宗教施設(7宗教)などを備え、入所者の生活スタイルが生かされている。入院患者以外は、自立生活の行える方は、一般舎(軽症寮)で、介護を必要とされている方は、不自由者センターで生活されている。一般舎は、夫婦で生活されている方々は、2DK、単身の方は1DKほどの広さである。
このような環境の中で、入所者の方々の趣味の世界も幅広い。自治会を核として、機関紙発行(青松・灯台)、クラブ活動(カメラ、川柳、俳句、短歌、詩歌、囲碁、ゲートボール、盆栽、絵画、陶芸、等)が続けられている。これらの活動を通して、外部との交流がはかられている。
(参考)大島青松園案内パンフ
1873 アルマウェル・ハンセンがらい菌を発見
1900 内務省第1回ハンセン病患者調査 患者総数30359人
1907 法律「ライ予防ニ関スル件」を制定
1909 道府県連合立療養所を五ヵ所に設立
1931 全患者の絶対的隔離をめざす「らい予防法」(旧法)制定
1943 米国で開発された特効薬「プロミン」の効果が公表される
1947 日本でも新治療薬プロミンの使用が始まる
1953 「らい予防法」(新法)が公布される
1960 WHOが、差別的な法律の撤廃と外来治療を提唱する
1981 特効薬による複合療法が確立される
1996 「らい予防法」が廃止される(4月)
2001 ハンセン病元患者らが国との和解合意文書に調印
事前に詳細な見学行程を組んでいただいたため非常にスムーズに見学することができた。
・官用船「せいしょう」に乗って大島へ
官用船には多くの人が乗船していたが、そのほとんどが青松園の職員だった。
・オリエンテーション
・外来治療見学
内科、整形外科、基本治療・皮膚科、眼科、耳鼻科、歯科、リハビリ室をグループに分かれてそれぞれ2〜3科ずつ見学した。
・園長講義(園長 長尾先生)
ハンセン病についての概論、この施設について。(写真:右)
・自治会長講義(自治会長 曽我野さん)
療養所でいかに不当に扱われてきたか、「らい予防法」廃止までの患者運動と、法律廃止から国に対する裁判を起こすに至った経緯などについてお話をうかがった。自治会長の曽我野さんは雄弁であり強い意志を感じさせる方であった。若い頃から療養所内の青年団で施設の整備や施設内の子供の教育、らい予防法の改正などを求めて活発に発言されていたそうである。 (写真:左)
・昼食(園内食堂にて)
・園内見学、入所者訪問
青松園の盲人会の方との語らい。盲人会の会長さん、副会長さんにお話をうかがう。療養所の今昔の暮らしのことや、熱意をもって取り組んでいることなど。雑誌「灯台」の紹介や書籍の紹介などもしていただいた。
・ 老人会の方との交流会
簡単な食事やお酒も用意されていて、お話を伺ったりカラオケを歌ったりして、楽しいひと時を過ごすことができた。また、療養所で働いている職員の方のお話も伺うことができた。
・園長先生との質疑応答
今回の訪問スケジュールの中に、外来治療見学というものがあった。私たちのグループは外科と眼科を見学することができた。外科治療を受けに来た入所者の方々は、当初わたしたちがいることに少しばかり違和感をもった様子を見せていたが、「九州から見学に来ました。少し見せてもらってもいいですか」と尋ねると、快く「いいですよ」といってくれた。中には自分の傷について、どこで怪我をしたかとか、どのくらい治療を続けているかなどを細かく教えてくれる方もいた。
療養所の方々はみなさん親切で、行く先々で歓迎を受けた。盲人会の方との交流の場では、日々の暮らしや発行している機関誌について紹介してもらったし、老人会の方には、簡単な食事をご馳走になったり、カラオケに興じたりした。「若い人たちが来てくれると嬉しい」という言葉に、素直に嬉しいと思った。盲人会の方々は、機関誌「灯台」を発行している。「灯台」には、社会から隔絶され不当な扱いを受け、そこから人権を求めて闘った者たちが存在したということを後世に残したい、そして二度とこのようなことがないようにという願いがこめられている。自分たちの行動を振り返って、ハンセン病患者、回復者たちの足跡を必死で残そうとしている。
その一方でこんなこともあった。眼科の見学の際、治療を受けに来たある女性がいた。その人は視力も残っているようで、眼球が乾かないように点眼薬を打ちにきていた。女性は私たちの存在に気が付くと、少し恥ずかしそうにして両手をシャツの中に入れてしまった。私はそれを見たときに「ああしまった」と思った。その方に直接尋ねたわけではなかったが、「自分の手を見られるのが恥ずかしい」と感じてとった行動だったのだろう。自分の姿を見られたくはないという思いは、やはり入所者の方の中に深く残っているのだとそのとき痛切に感じた。
私には、現在の療養所の生活はこれといった不自由のない、静かなものに思われた。入所者の人々は毎日、治療を受けたり、雑誌の原稿や手紙を書いたり、趣味のカラオケに精を出したりと、思い思いに過ごしている。衣食住は安定しており、経済的にも不安はない。その背景に、何十年も続いた凄惨な暮らしと、患者運動、回復者運動による絶え間ない努力があったことは決して忘れてはならないが、国との和解も成立し、ハンセン病に対する社会的な認知も高まってきて、今やっと、当たり前の生活を当たり前に送れるようになった。しかし入所者のたたずまいから窺い知ることができるのは、充足感ではなく、寂しさや虚しさと形容できるような感情であった。それはどこから来るのか。それは、「故郷を追いだされ、社会から隔絶された」ことによるのではないか。日常的事項からかけ離れた、大きな欠落感とも言えるかもしれない。
入所者の1人である塔和子さんの詩は、現在のハンセン病患者の人々の複雑な思いを表しているようで、心を動かされた。
生(なま)さを 塔 和子
この療園に住む人はみんな
健康な社会から間引かれた人達で
ふるさとでは死んだことになっている人さえいる
しかし私はおだやかに平易に暮らしていた日
これでいいのでしょうかと
何物かに対してつぶやく
遊んでいてもどこからも文句を言われない
このさびしさ
間引かれた身であれば
静かに枯れるのが望ましい
けれども
いまはまだ
悲しいとは言っても涙し
嬉しいと言っては笑いころげる
この生さを
静めてくれるものはなにものもない
(15年9月1日大島青松園自治会発行の「青松」より)
私ができたことは、現在のハンセン病患者がどのような思いで毎日を過ごしているか、その一端を見ることだけだった。園長である長尾先生の「隔離や人権侵害が、ハンセン病患者の方に対してあったということを正しく理解するしか、我々にはできない」という言葉に、ただうなずくばかりだった。
そもそも、なぜハンセン病患者が、社会的に不当な立場に追いやられたのだろうか?ハンセン病患者に見られる、様々な外見上の変化は、それと無関係であるとはいえない。現在は、ハンセン病の原因菌であるらい菌への認識も高まっている。ハンセン病の感染源は、未治療らい腫型患者の鼻汁、皮疹滲出液、たまに母乳などで、主として皮膚、粘膜を介して、感染するらい菌によるものだということが分かっている。感染力は弱いが、親子間の濃密な接触でうつることが多く、また、幼年期の感受性が高いために、遺伝性であると誤解されてきた。その誤解も人々の恐怖心を助長した原因となったのであろう。こういったことから、らい菌の感染が、宗教的あるいは社会的解釈を受けて、一種の報いや天刑であるという誤った認識が生まれ、人格評価にまで及んでしまうといった悲劇が生じたのである。その上、プロミンが開発されるまで、有効な治療法もなかったのであるから、当時、らい菌の感染を告げられた患者は、迫り来る死を迎えるしかすべはなく、その絶望は計り知れないものだろうと思っていた。
以上のような先入観をもって、私はやや緊張しつつ大島を訪問した。大島青松園で、私たち学生は、暖かい歓迎を受けた。病棟の見学、園長先生の講義、自治会長さんのお話、盲人福祉会館での盲人会の方々との交流、老人福祉会館での思いがけぬ歓迎会。その各所で、入所者の方々、先生方は、私たちの学ぼうとする姿勢を受け入れてくださり、質問にも快く応じてくださった。ハンセン病の歴史について暗いイメージを抱いていた私は、入所者の方々の、大島での生活の様子を見て、驚いた。そこでは、一人一人のライフスタイルが確立されていた。
前述のように、青松園に入所されている方々は、ほとんどが高齢者の元患者で、現在、基本治療は終了している。入所者は186名で、彼らの生活を260名もの職員が支えているのである。治療棟の内装も清潔であった。現在は、旅行や外出も自由で、理髪やマッサージは無料、年金も支払われているそうである。世間一般の高齢者の方々より、一見快適な生活環境である。実際、盲人会館でお話を聞かせてくださった方の一人は、現在療養所なしでは生活できない、依存している部分も大きいとおっしゃっていた。しかし、現在の安定した暮らしは、かつての隔離政策の代償として、彼らの長い差別との闘争の末に勝ち得たものなのである。現在の入所者の方々を、不幸と呼ぶのは間違っているが、かといって、彼らから今の生活の保障を奪うことは許されない。長年すみなれた大島から離れて暮すことは、後遺症を抱えた高齢の方々には難しいのである。決して、望んで大島に住むようになったわけではないのであるが…
1907年に「らい予防に関する件」が制定された。当時、国力増強を図っていた政府には、徴兵検査でハンセン病患者を発見すること、そして増えつつあった外国からの訪問客の目に、浮浪者となった患者を映したくない、といった考えがあったそうである。
ハンセン病の問題は様々な要因が絡み合っており、その原因を短絡的に、一つに集約することは出来ないと思う。その原因や治療法の知られていなかった当時の、人々の無知を攻め立てることは出来ないだろう。しかし、隔離の必要性を否定する、重要な実験データが無視されたという許されるべきでない事実もあったそうである。一つだけ確かなことは、隔離政策によって被害を受けたのは、ハンセン病患者の方々であるということである。現在も全国各地に残るハンセン病の療養所とそこに入所されている回復者の方々の存在がその歴史を証明している。
現在わが国におけるハンセン病の発生は少なく、1年間に数名〜20名前後である。しかし、ハンセン病を過去の病と軽視するのは間違っていると思う。私たちは、その歴史から目をそらすことなく、同様のことが繰り返されるのを防ぐ努力をしなくてはならない。過去の過ちについて学び、いまだに世界では重要な感染症のひとつであるハンセン病の対策はもとより、その他の感染症問題にも生かすことが、これまで苦労されてきたハンセン病元患者の方々への償いとなるであろう。
(1) 国立療養所大島青松園のページ
http://www.hosp.go.jp/ ̄osima/
(2) [Mognet] ハンセン病
http://www.mognet.org/index.html
(3) 特集 ハンセン病/熊本日日新聞社
http://kumanichi.com/feature/hansen/
(4) 記録映画「風の舞〜ハンセン病の詩人 塔 和子の世界〜」
http://www.kyodo-eiga.co.jp/tokazuko1.html
今年(2003年)に角南が幹事で「2003年度 医療経営学習会in九州 第二回 (2003.5.17.開催)」という、医療経営・病院経営に関する学習会をしました。テーマは「『経営基本管理』〜良質な経営が生み出す納得の医療〜」で、講師には、牧野公彦氏(経営コンサルタント)をお迎えしました。その学習会の中で見た「日経スペシャル ガイアの夜明け 第六回 『公立病院は生き残れるか!?院長たちの闘い』(2002.5.19.放送)」で坂出市立病院のことが紹介されており、その中での塩谷院長の人柄、そして「良質な経営なくして良質な医療なし」という言葉がとても印象的で、学生なので経営について専門的なことはほとんど分からないだろうけど、ぜひ病院を見学して、「医療者とは何か?そしてその職場である病院はどうあるべきか?」ということを考えられたらと思い、大島青松園と共に見学に行こうと思いました。なお、失礼ながら見学の申し込みをする際、時期が迫っていたこともあり最初からいきなりお電話差し上げたのですが、突然のお願いにも関わらず一時間足らずで見学許可のお返事を頂き、「普通の病院ではないな」とウキウキしていました。
坂出市立病院の訪問の前日に大島青松園を見学したこともあり、高松市から坂出市まで、角南含め一部のメンバーは海岸線をドライブしました。ちょうど天気もよく、空も晴れ渡り、真夏だったので暑かったですが、それもカラッとした暑さで心地よく、海も静かでした。香川県は近年「讃岐うどんブーム」で全国的な注目を集めていますが、うどんだけではなく、自然も素晴らしいと思いました。そして坂出市内に到着しましたが、坂出市立病院は駅から歩いて五分という、とても立地条件のいいところに建っています。
ではここで病院の概要について。坂出市立病院は1947年に開設しました。病床数216床・8診療科・3病棟から構成され、へき地医療中核病院・病院群輪番制病院・救急病院・広域救護病院等の指定を受けています。職員数は、常勤医師22名、常勤看護婦86名をはじめとした合計222名から構成されています。
最初病院を見たときの第一印象は、「結構古い建物なんだな」というものでした。ホームページでは病院の全体写真がなかったのでどんな建物なのか分からなかったのですが、経営が劇的に改善されたのであれば、その波に乗って建物も新築したのかな、と思っていたからでした。これについては後にも触れようと思います。
塩谷院長は平成三年九月、この病院へ院長として赴任されました。そのことを塩谷院長は著書の中で「真っ暗闇の世界への旅立ち」と表現されています。しかし、一方で、「その旅立ちを促したのが・・・(中略)・・・私の恩師であったことに一期一会の喜びを感じずにはいられない。あえて『喜び』と表現したのは、この8年間の病院再生のための日常を、私は苦労したと思っておらず、むしろ自己実現ができるという『喜び』と認識しているからである。」と書いておられます。
ではさっそく、赴任当時の経営状態についてお話しましょう。
詳しい経済の専門用語等の解説は省略するとして、いかにひどいかがお分かりいただけると思います。そのためマスコミの報道も加熱し、ある理学療法士さんは「通勤の満員電車の中で顔見知りの人が、『また載っとるぞ。お前んとこ潰れたらええんや!』と大声で話し、そのたびに身の縮まる思いであった。」と書かれています。そして親方の自治省からは「病院の収縮あるいは廃止を含めて検討すること」と言われていたのでした。
それほどひどい状況の中、塩谷院長の強力なリーダーシップによって病院全体が劇的に変わっていくのですが、その過程で行ったことについてはここでは割愛します。もちろん紙面の都合上というのもありますが、自治体病院の関係者の方々ならココが一番大事なところですが、僕たち学生にとってはそのことよりも、先生方のお話や病院施設内を見て・聞いて、考えたこと・思ったことのほうが大事だと思ったからです。
でもそれでは勿体無いと思ったので、僕が調べた中ですごいと思ったのを書こうと思います。
これは病院経営評価の手段として一般に用いられている診療科別損益計算に変わって考えられたものでした。従来の「診療科別」だと診療科(医師)だけの業績を評価するもので、全職員参加の病院経営を考える時、医師以外の職員が経営に対してどれほど貢献しているかを目に見える形で示すことが重要だ、ということで考え出されました。そこで各診療行為別に利益を配賦していったのです。例えば、内科入院に関して、投薬処方料:医師95%・看護師5%、注射手技料:看護師100%などなど。それで各職種別に収益を計算していったのです。すると、従来は病院収益の全てが医師のものとみなされていましたが、医師の総収益に占める割合は約32パーセントに過ぎないこと、医療は医師だけでなく看護師など様々な職種によって成り立っていることが分かったといいます。ただ、その利益配賦率について理論的根拠がないことなどから、現在は中止されているとの事です。
これは実際にグラフを見ていただくと良いのですが、縦軸に入院期間をあらわす一日あたり入院時医学管理料、横軸に積極的医療の程度を意味する特掲診療科をとり、個々の患者についてプロットするというものです。これによりその月に在院している全ての患者の入院期間の長短と、どのような医療がなされたかの分布像を視覚的にとらえる事が出来ます。
さてさて、ここで院長赴任後の経営状態の推移について簡単に書こうと思います。
どうでしょうか?ここまで改善されたことについて塩谷院長は「黒字経営に転換したこの間、人を増やしたり大々的な設備投資をしたわけではない。『変わらなきゃ』と職員が意識を覚醒させたことにより、赤字体質が一掃され、黒字基調になったのである。歯を食いしばりながらこの偉業を成し遂げた当院の職員は、病院の宝であり、坂出市行政の宝であり、全国の自治体病院に誇れるものだと思っている」と言われています。
事前の勉強会で、「不良債務額日本一だった病院をたった数年で再建させた、すご腕院長がいる病院」と聞いており、一体どんなところなのだろうと興味津々だった。病院の中に入ると、「坂出市立病院基本理念」を始め、「坂出市立病院看護部基本理念」「患者さんの権利について」「認定証」が目に飛び込んできた。明確な方針を持った病院なのだ、こうやって大々的に宣言しているからこそ責任も重く、スタッフ全員が努力するのだろう、と思っているとすぐに「九州大学の方ですか?」と声をかけられ、会議室に案内された。塩川院長は、眼光鋭くクールな感じの人なのかなと漠然とイメージしていたが、現れたのは、関西弁(?)の気さくな先生だった。
「患者さんが白衣見たら、それだけで緊張して血圧も上がるやろ?やから僕は白衣を着らんのよ」とおっしゃる院長、テニスに燃えていた学生時代の精神が今でも役立っているそうだ。「日常性に埋没するな!」 これは院長が友人に言われた言葉で、「同じことばかりやっていたら発展がない」ことを示唆するものらしい。講話を聞いていくうちに、精神面での「基本」を重視した上で、坂出市立病院独自の工夫をしていることが分かった。
まず、「患者がいて医療従事者がある」という根本的な事実を念頭においている。患者一人一人の価値観を知った上で自分の人間性をどう伝えるか、患者の気持ちを聴診器でききなさい(気来)、という言葉から、それをうかがい知ることができた。また、医療従事者としての自覚を持つことも忘れていない。自分達の何気ない一言が患者を元気付けもし、傷付けもする。この意識の差も大きな結果を生んだのだろう。そして、「チーム」医療に対する見直し。医療は医師一人でできるわけではなく、全員が同列=同等の責任を持つということを、「医療はサッカーだ」とたとえ、スペースを埋める医療をして「チーム」の勝利を目指すとおっしゃる院長に、終始うなづきっぱなしだった。
さらに、独自の工夫として、毎朝看護師が交代で身の回りのことについてスピーチする「朝のまごころ放送」を実施している。世間話には、誰でも何かしら興味を抱くし、看護師一人一人のものの見方が垣間見えて親近感がわくだろう。放送の内容をきっかけとして患者は話し掛けやすくなり、病気について相談することも増え、より良い医療を提供するために必要な信頼関係を築いていけるのではないかと思う。また、患者に診療情報(カルテのコピー)を全て渡す、「私のカルテ」制度もある。患者が自分の病気を理解する機会となるばかりでなく、医師も、自分の手の内を全て見せる緊張感から、カルテにできるだけ情報を書き込むようになる。これを持って他の病院に行くと、紹介状にもなる上に、セカンド・オピニオンを得ることもできると聞き、なるほど!と思った。地域との関わりを持とうと、お祭りに参加している病院のスタッフの写真に、こんな方達なら確かに親しみがわくな、と思わず笑みがこぼれた。
坂出市立病院の最も画期的な制度と言えば、やはり電子カルテの導入だろう。砂川副院長の説明を聞いた後、病院内を見学して実際に見せていただいたのだが、これなら読み違い・とばすなどのミスがなくなるだろうと思った。薬の略称変更をしたフォントを作って安全管理をしており、一回打ち込めば行方不明になることもなく、探したり運んだりする手間も省け、外来をしながら回診状況も見ることができると聞き、これが全ての病院にも導入できたらもっと効率的な医療を展開していけるに違いないと感心し通しだった。しかし、ここで忘れてはいけないのが、電子カルテは情報提供に大きく貢献しているということだ。カルテを印刷して手渡し、患者自身がダブルチェックをすることで、医師は信頼を得ることができる。いい医療をつくるための電子カルテという視点を院長は持っていらっしゃる。
「これからの医療は『分かりやすさ』だ」とおっしゃり、その言葉の通り、病院内のことを大学に置き換えて身近にとらえさせて下さった塩川院長、「完璧を求めすぎるといつまでも動かない」と、電子カルテの仕組みについて教えて下さった砂川副院長の言葉が、いつもあやふやで優柔不断な私の弱点をズバリついている気がして、気を引き締め直した半日だった。
感情エネルギーを原動力に、共鳴を得て、行動エネルギーに結びつける。アイデンティティを持ち、仕事や学習に生きがいをもつ。これがどれほどの効果をもたらしたかは、目を見張るものがある。意識の覚醒によって、私たちはどのように変わっていけるのだろう。一生かけて追求していきたい。
塩谷院長は赴任してからの病院再建の日々を「生きがい」だったと言われていたことは先にも述べた通りですが、赴任当時はそこが日本一の赤字病院と言うことも知らされておらず、いきなり院長就任の数週間後に自治省から病院廃止勧告を受けたのですから、「生きがい」と言えるまでにはかなり長い道のりがあったことは容易に想像できます。でも僕は院長が最初から「一生懸命やれば、何とかなるさ」と割り切れたところに院長のすごさがあると思いました。だからこそ病院のスタッフが一丸となれたのだと思います。そして最初からこの病院再建の中に「生きがい」を見つけたことにも。
ここでちょっと横道にそれて・・・
塩谷院長の著書の中に「こんな勤務医いらない」というのがありました。それをここで引用させて頂きますと、
人間としての基本的マナーに乏しい
規則・時間を守れない
協調性に乏しい
患者に対して誠実でない
技術・知識の向上に意欲がない
総合的に患者を診れない
反省心がなく、謙虚でない
医療保険制度を理解しない
となっています。新米医師には面接時に見せて、「一つでも該当するようなことがあれば、お引取り」だそうです。
でも考えてみれば、医師としてではなく一人の人間・社会人として当たり前のことだな、と思いました。ほかにも、看護師、事務職員、臨床検査技師、病院薬剤師、診療放射線技師、栄養士、理学療法士バージョンがありました。医学生バージョンもあるとかないとか・・・
さてさて、「医療は医師だけのものではない」という言葉はよく聞きます。しかし今回ほどこの言葉が僕の胸に響いたことはありませんでした。病院の統一理念を作ったこと、業種別の損益計算をしたこと、全職員の参加する年次報告会の開催などなど。項目を挙げるときりがないですが、病院内を見学していると、言葉で表すのは難しいですが、その雰囲気に一体感のようなものを感じて、それぞれの職種・個人がやりがい・プライドを持って日々仕事をしているんだ、ということがよく分かりました。
そんな中、僕はある看護師さんに「なぜ病院を改築しないのですか?」と聞きました。そのときの答えが見学の中で最も心に残ったのでここに書きます。それは「そのための予算が下りない」というものでした。確かに坂出市の財政があまり思わしくないこと、再開発などが現在進行中ということもありますが、せめて院内の改装・リフォームくらいは出来るはずだと思いました。すると、「この病院は市立病院だから、そういうことは市議会で決められる。坂出市民からそのような声は上がってこない」と言われていました。
そして最後に「失った信頼を取り戻すことは本当に難しい」と言われていました。これを聞いて僕は、やはり現実は厳しいのだな、と思いました。確かに病院が黒字になって不良債権は解消しましたが、その期間の何倍もの期間、まさに「日常に埋没した」医療が行われていたわけです。しかしそれと同時に病院・医療者に求められるものの大きさを感じました。なにしろ人の命・健康のお手伝いをさせていただくのですから。
最後に、今回の見学を快諾してくださった塩谷院長、砂川副院長初め病院スタッフの皆様、坂出市立病院のことを紹介してくださった牧野さん、そしてお忙しい中病院への依頼状を書いて下さった信友先生に、心から御礼申し上げます。
(1) 病院「変わらなきゃ」マニュアル 塩谷泰一・谷田一久著 日総研 1999.07
(2) もっと病院変わらなきゃマニュアル 塩谷泰一著 日総研 2003.08
(3) 「坂出市立病院」のホームページ
http://www.city.sakaide.kagawa.jp/hosp/
(4) 「日経スペシャル ガイアの夜明け」のホームページ
http://bb1.tv-tokyo.co.jp/gaia/index.php
(文責;4以外:角南、4:吉川)