ペシャワール会について


・ペシャワール会設立の経緯

 ペシャワール会は、中村哲医師のパキスタン・アフガニスタンにおける活動を支援するために1983年設立されたNGOである。

 中村哲医師がパキスタンに於いて活動を開始したのは1984年にさかのぼる。1984年、中村哲医師は、日本キリスト教海外医療協力会より、パキスタンのペシャワール・ミッション病院にらい病棟主任として派遣された。当時パキスタンでは、政府の協力の下にらいコントロール計画が進められており、ペシャワールの位置する、アフガニスタンとの国境に近い北西辺境州では、マリー・アデレイド・レプロシー(らい)・センターを中心にらい根絶計画がすすめられていた。中村医師が赴任した折りより、ペシャワール・ミッション病院は、カラチというペシャワールからやや離れた場所にあるマリー・アデレイド・レプロシー・センターとともに協力し、らい根絶計画に当たることとなった。これが中村医師が現地に於いて活動を始めた最初である。

・中村医師の活動とJAM・PLSの発足

 中村医師は、1984年の赴任以来、らい病棟の改善・らい患者の治療に全力を注いできた。中村医師は、その場限りの治療にとどまらず、あらゆる方面かららいの根絶を試みている。その例のひとつが、サンダルのワークショップである。らいは皮膚と末梢神経を侵すため、患者は足に傷を負っても気づかず、同一患部を傷め続け、ついには足の裏に穴があく。ここから様々な感染症にかかることが非常に多い。中村医師はこのような事態を防ぐため、病棟内でサンダルのワークショップを作ったのである。

 JAMS(日本・アフガン医療サービス)は1986年発足した。1979年に始まったアフガン戦争によって生まれたアフガン難民に医療措置を提供するのが目的であり、この医療チームは、現地の民族的な諸問題を考慮してすべてアフガン人で構成された。1987年政府の認可により、このチームは独立した難民救済団体であるとともに、マリー・アデレイド・レプロシー・センターのペシャワール支部という二重の意味を帯びる団体となった。さらに1988年ソ連軍が撤退し難民の帰郷が始まると、このチームはアフガニスタンの再建を医療側から担うべく再編成され、JAMSとなった。以後、JAMSは、難民の帰郷先であるアフガニスタンの山岳地帯の村の復興に視点を置き、医療活動を行っている。これらの山岳地帯は過去数世紀にわたってほとんど変化していない伝統文化を持ち、無医地区に近い。JAMSはアフガニスタンに1991年3つの診療所を設立し、毎年約17 万人の人々を無料診療している。同時に難民キャンプを定期的に巡回診療しながら、地元スタッフの養成に努めている。現在地元スタッフは 100名、1991年に設立された3つの診療所に加え、アフガニスタンとパキスタンにさらに1つずつの診療所を運営している。

 PLS(ペシャワール・レプロシー・サービス)は、ペシャワール会の第2の現地活動母体として、1994年発足した。これは現地政府認可の正式の社会福祉法人であり、40床のベッド数をもつ病院を所有してパキスタンの北西辺境州・アフガニスタンの東部の住民にらいの治療を行っている。1995年にはさらに1つの治療診療所を設立した。現在地元スタッフ30名、日本人スタッフ5名であり、らい患者の発見のために移動診療所も運営している。イスラム教では女性はたとえ医師であっても男性に肌を見せることは禁止されているので、女性のらい患者の早期発見率は非常に低く、女性患者の発見のためには女性の日本人看護婦によるケアが欠かせない。

 このように、中村哲医師を中心に現地での活動を行っているのがJAMS・PLSで、それを背後から支えているのが日本のNGOのペシャワール会である。

 ペシャワール会は専従者なしのボランテイアによって運営されているため、事務局維持費・会報の印刷・発送費などをのぞく95パーセント以上の寄付金が現地プロジェクトのために使われている。現在の会員は約3500人。

・今後の展望

 北西辺境州における現在のらい患者の数は、WHOのレポートとは逆に約7000に増え、潜在的な患者は数万人と予想されるに至っている。しかし、それらの患者を治療する治療センターは、事実上PLS病院だけという状況である。しかも、この病院の建物は借家であり、地域住民の反対にあって2年後には出て行かざるを得ない状況に追い込まれた。幸い現地政府の理解により、土地は無償で提供された。しかし、新病院の建設には約5000万円が必要であり、現地既病院の運営資金だけで年間予算9000万円近いNGOとしては大きな負担であった。一時は厳しい状況だったが、現在では資金も集まり、新病院の建設も1996年12月に始まり、順調に進んでいる。

・アフガン内乱前後の動きについて

1973ダウード政権のクーデター→王政廃止→近代化強行

1978ダウード暗殺←共産政権

<改革>断行

各地でムッラー(イスラム僧)が<ジハード>宣言

1979.12ソ連侵攻→農村の破壊

1984.8米議会が武器援助法可決→米の本格的介入
中国から買い付けられた武器の大量投入
ペシャワール郊外のゲリラ訓練施設

難民がパキスタンに流入

治安悪化

ソ連・米の国力の衰退

緊張緩和
1988.4ジュネーブ和平協定

1988.5ソ連軍撤退開始

NGO(民間援助団体)殺到

ACBAR(アフガニスタン復興救援調整委員会)

米ソの軍事援助継続

<一千万発の地雷>

1992.1米ロの武器供与停止
1992.4カブール政権崩壊→難民帰郷


・JAMS(Japan-Afgan Medical Service)の発足について

1984年当時「らい根絶計画」ーパキスタン北西辺境州
 本部ーマリー・アデレイド・レプロシー・センター(カラチ)←西ドイツ

カトリック団体
 (パキスタン分離独立直後から活動)
 支部ーペシャワール・ミッション病院
 らい病棟主任ー中村哲医師
1986年10月ALS(Afgan Leprosy Service)(アフガン人チーム)発足
1987年10月独立した難民救済団体として州政府の認可
1988年アフガン難民の帰郷開始→JAMSに改組
1989年2月「診療員養成コース」スタート
1990年北部国境テメルガールに支部開設
1991年11月JAMS、ダラエ・ヌールに入る


・PLS(Peshawar Leprosy Service)の発足について

1994年ペシャワール会の第2の現地活動母体として発足
社会福祉法人として現地政府認可
1995年治療診療所増設

ペシャワール会の現地組織について

ペシャワール会(日本)PRS(peshawar relief service)ー州政府に登録されたNGO
JAMS(Japan-Afgan medical service)
アフガニスタン側で活動
PMS(Peshawar medical service)
パキスタン側で活動