パキスタン班


<研修目的>

 福岡に本部を置く医療NGOであるペシャワール会の現地における医療活動を見学する。イスラムという独自の宗教・文化を持った国において,本会の現地代表である中村哲先生をはじめとするスタッフの方々がどのように医療協力を行っておられるかを見,日本人としての国際協力の望ましいあり方について考える。

<研修地>

 パキスタン国北西辺境州ペシャワール

<研修期間>

 1998年3月16日〜28日

<団員構成>

 熱帯医学研究会 学生3名

<研修日程>

3月16日 パキスタン・イスラマバード着
  17日 ペシャワール着
  18〜25日 PLS・JAMS見学
  25日 カイバル医科大学見学
  26日 イスラマバードへ移動
  27日 イスラマバード出発
  28日 帰国


◆報告◆

・パキスタンと北西辺境州について
・ペシャワール会
・JAMS・PLS  今後の展望
・活動内容報告
  −病院のシステムと設備について
    病院のスタッフについて
    PLS患者の動向
    PLSの患者から思うこと
    パキスタン社会の根底にあるもの


<序>

●パキスタンと北西辺境州について●

 パキスタンは,1947年,インド内のイスラム教徒を中心にインドより分離・独立した国である。1971年に東パキスタンがバングラデシュとして独立し,西パキスタンが現在のパキスタンとなった。北西辺境州は,インダス川の西岸一帯の,アフガニスタンと長い国境を接する地域である。州都はペシャワールで,州全体の人口は約一千万である。州の大半は北西部の険峻な山岳地帯であり,豊かなペシャワール平野やスワト盆地を除けば,大方は不毛の岩石砂漠で,その中に村落が点在している。

 民族的には,アフガニスタンの支配民族でもあるパシュトゥー部族が支配的である。1895年にデュランド・ラインが設定されるまでは,北西辺境州一帯はインドというよりアフガニスタンの一部であった。アフガニスタンとの国境には,tribal areaと呼ばれる少数民族の自治地区があって,それぞれ独自の言語を持つ小国家群を形成しており,住民は数世紀もの間ほとんど変化することのないままの生活を営んでいる。

 北西辺境州の産業は,定住地域では農業が主流である。しかし,tribal areaでは遊牧生活を営んでいる者も多い。

●ペシャワール会●

 ペシャワール会は,中村哲医師のパキスタン北西辺境州・アフガニスタンにおける医療活動を援助するため,1983年に設立されたNGO(非政府援助団体)である。本部は福岡におかれ,日本での広報活動・募金活動・ボランティア・ワーカーの派遣という3つの活動を主に行っている。事務局には専従者はおらず,すべてボランティアであるため,会報の発送費・事務局の維持費などを除いた,会費・寄付の95%以上が現地での活動費に充てられている。1998年4月現在,会員約3500人。

 ペシャワール会の現地組織がPRS(Peshawar Relief Service)であり,これはパキスタン政府認可の国際NGOである。このPRSのパキスタン側の活動母体がPLS( Peshawar Leprosy Service),アフガニスタン側の活動母体がJAMS(Japan-Afghan Medical Service)である。

●JAMS(Japan-Afghan Medical Service)●

 中村哲医師は,1984年,ペシャワール・ミッション病院にらい病棟主任として派遣された。当時パキスタンでは,政府の協力のもとにらい根絶計画が進められており,中村哲医師赴任以来,ミッション病院はらい根絶計画のペシャワール支部となった。当時のミッション病院らい病棟は医療器具も手術設備も十分ではなかったが,中村医師はらい病棟主任として10年間,情況の改善に全力を尽くした。

 JAMS(Japan-Afghan Medical Service)の前身であるALS(Afghan Leprosy Service)は,1986年に発足した。1979年に始まったアフガン戦争によって生まれたアフガン難民に医療措置を提供するのが目的であり,この医療チームはすべてアフガン人で構成されている。というのは,パキスタン人・アフガン人の間には,民族的な長い対立の歴史があるため,今なお敵対意識が強いからである。1998年ソ連軍が撤退し難民の帰郷が始まると,ALSはアフガニスタンの再建を医療側から担うべく再編成され,JAMSとなった。以後,JAMSは,難民の帰郷先であるアフガニスタンの山岳地帯の村の復興に視点を置き,医療活動を行っている。

 これらの山岳地帯の大部分はtribal areaに属しており,過去数世紀にわたってほとんど変化していない伝統文化をもっている。JAMSはアフガニスタンに1991年3つの診療所を設立,毎年約17万人の人を無料診療している。また,ペシャワールにおかれたJAMSは,25床の入院設備を持ち,年間の入院治療者数は約900名にのぼる。

●PLS( Peshawar Leprosy Service)●

 PLSは,ペシャワール会の第二の現地活動母体として,1994年発足した。40床(男25・女15)のベッド数を持つ病院を所有し,らいをはじめとした診療を行っている。スタッフは37名,年間外来治療約1万名,年間入院治療約600名。JAMSに比べて入院治療者数が少ないのは,らいなどの長期のケアを必要とする疾患を主に扱っているからである。イスラムの女性は,たとえ医師であっても男性にはなかなか肌をみせようとしないので,日本人看護婦によるケアも重要となっている。

●今後の展望●

 1997年,アフガニスタンではタリバーン(イスラム復古主義の新勢力)が政権を握り,厳しいイスラム法による統治方針を徹底した。このため各国のNGOはJAMS以外は退避した。また,北西辺境州のらい患者は,潜在患者を入れると少なく見積もっても2万人にのぼると思われるが,政府の「らいは根絶された」という見解のもとに,他対らい団体は撤退の傾向にある。

 そのような中,2年ほど前地元住民がPLSの立ち退きを要求したため,新病院の建設が始まった。これを機会に現地ではアフガン・パキスタンチームの統合を目指している。具体的には,JAMSを現在のPLSの場所に移して外来診療のみとし,これからの活動は新病院・PMS(Peshawar Medical Service)中心にやっていくということである。1997年12月には統合病院としての組織の改革を明言し,1998年4月末に新病院の完成式が行われた。しかし,JAMSの縮小にあたって,スタッフを半数ほど解雇せざるをえず,また,パキスタン・アフガニスタンの民族的な対立感情も渦巻き,統合は困難をきわめた様子であった。  これからも新病院のスタートにあたって色々な問題も生じてくると思われるが,開院に至るまでのスタッフの方々の努力に素直に拍手を贈り,今後のご活躍を期待したい。

 
<活動報告>

●病院のシステムと設備について●

 ぺシャワール会はパキスタン国内に2つの病院と,2つの地方診療所,アフガニスタン国内に3つの地方診療所を持っている。このうちの2つの病院について紹介したいと思う。これらはPLSとJAMSという2つの病院で,PRS(Peshawar-kai Relief Services)というぺシャワール会の現地組織の管理下で現在運営されている。なお,1998年5月にこの2つの病院は統合され,ぺシャワール郊外に現在建設中の新病院がこの2つの病院に変わってこれからの北西辺境州及びアフガニスタンのハンセン病撲滅事業を引き継ぐことになっている。

 まず,PLS(Peshawar Leprosy Service)であるが,この病院はハンセン病に対する偏見が周辺住民に依然強いことから,最近PMS(Peshawar Medical Service)と名称が変更になった。PMSでは主にハンセン病などの慢性で麻痺性の介護に手のかかる患者を扱っている。PMSはぺシャワール市内の新興住宅地内にあり,近くにはカイバル医科大学校もある。スタッフは現地医師4名,看護婦と看護士3名,看護助手10名,ハンセン病診療員を含め37名である。入院ベッド数は男性25女性15の40床である。建物は外来,看護婦詰め所,病室,救急用病室,薬品庫,検査室,サンダル制作室,手術場,食堂,講義室から成り,バレーボールができるくらいの中庭が2つあった。どの部屋も日本の設備に比べれば,もちろん不潔で質素なものには違わないが,それほどみすぼらしいという感じはなかった。むしろ空き時間を利用して,見学しに行ったカイバル医科大学病院よりも清潔だったと思う。なお,サンダルはハンセン病などを患い足底潰瘍を作ってしまった患者さんのためのものである。サンダル制作室では4人の元ハンセン病患者の方が患者の足の状態に合わせたサンダルをオーダーメイドで作っていた。外来の部屋では主にパキスタン人とアフガニスタン人の3人の先生が診察に当たられていて,日本人の先生はウルドゥー語を話す患者のみを見ているようだった(というのは患者の大部分は貧しい人達で部族語のパシュテュン語は話せても,公用語のウルドゥー語が話せない人が多いので)。外来の奥には最近導入したと言うECHOの機械が大切に置かれていた。ECHOは主に日本人の先生が診察に使われているようだった。手術はだいたい週に一度ずつ行われているそうだ。また,ここでは検査として,血液一般,便検査,尿検査,細菌検査,単純X線,マラリア検査が主に行われているようだった。救急用の病室では針灸治療も行われていた。なお,PLSのマネージャーはハンフリー氏である。  

 次にPLSの一日を記すと,まず朝8時に患者の申し送りがあり,それに続いて回診。この時ドクターは看護婦,看護助手らに指示を出す。大体1時間ほどで回診を済ませ,ドクターは外来の患者の診察に入る。その時看護婦や看護助手はドクターに指示されたように患者の処置をしていた。だいたいそれらの処置がお昼過ぎに終わると,昼食後はミーティングや看護婦らに対する講義が行われているようだった。またわれわれが訪ねたときは新病院の建設中ということで工事の進み具合を見るための主要スタッフによる視察も行われていた。

 ぺシャワール会の報告によるとPLSの年間入院治療者数は約600人,年間外来治療者数は約1万名(ハンセン病関係のみ)であった。われわれが見た感じではハンセン病患者が多く,次に腸チフスの患者が多かったようであった。

 次にJAMS(Japan-Afghan Medical Service)であるが,ここは元々アフガン難民の救済病院として作られた経緯から扱う疾患もPLSと異なり,感染症を中心として一般的な疾患をなんでも診ている。また活動対象地域もPLSのパキスタン北西辺境州とは異なり,アフガニスタン北東部となっている。ただし病院自体はぺシャワール市内にあり,PLSのほんの近所にある。スタッフは現地医師16名,看護士キ看護助手20名,検査技師14名他の87名である。かなりの数であるが,今度の新病院への移行に伴い辞めさせられる人々も出ることになっている。入院ベッド数は25床であるが,われわれが行った際には新病院への移行期ということで入院患者は10名であった。建物は,外来,病室,カンファレンスルーム,心電図室兼薬品庫,エコー室,針灸治療室,検査室,オペ室などから成っており,PLSに比べ広い感じがした。特にカンファレンスルームはかなり広いのだが,朝8時に主要スタッフが集合したあと,院長のシャワリ先生が現れたときには広い部屋がシーンと静まりかえり圧巻だった。また検査室はいくつかの部屋に分かれており,病理の専門家まで居て,かなり難しい細菌検査や病理組織診断まで出来るようであった。

 JAMSの1日の運営は我々が一度しか見学していないため,良く分からない。しかし,朝の6時から診察をしているらしい。朝7時40分頃に我々が訪れた際に,1日の患者の数を制限しているために診察を受けられず,門の外であきらめきれずにたまっていた患者がたくさん居たのが印象的だった。

 また,JAMSはPLSに比べ国境地帯の山村無医地区での診療活動により力を入れているようであった。

 JAMSの年間入院治療者数は約900名で,年間外来治療者は約15万人であった。

●病院のスタッフについて●

 現在,PLSでは37名,JAMSでは87名の現地スタッフが医療活動に当たっており,その内訳は次のようになっている。

 PLS−医師4,らい診療員4,看護婦・看護士3,看護助手10,検査2,一般助手6,門衛2,ワークショップ3,料理人2,事務3,JAMS−医師16,検査14,看護士・助手20,門衛8,運転手6,料理人3,事務3,薬局2,レントゲン3,その他3

 また,様々な民族的な問題のため,JAMSの現地スタッフは全てアフガン人で統一されている。この現地スタッフに加え,数名の日本人スタッフが医療活動や現地スタッフの指導に当たっている。私達がぺシャワールを訪れた時は,医師の中村先生,小林先生,看護婦の藤田さん・簑島さん,放射線技師の林さん,検査技師の松本さんの6人であった。日本人スタッフは,PLSから徒歩で5分程のところにある日本人スタッフハウスで生活している。

 現地スタッフは,ミッション病院時代から中村先生と共に活動してきた者,元患者,フィールドワークの際に中村先生が地方から連れて来た者など様々であり,現在は特にスタッフを募集することはしていない。スタッフ,特に看護士は,PLSもしくはJAMSで訓練を受けて働いている者が多数を占めている。PLSでは,正式な看護学校を卒業した者は僅か2名に過ぎなかった。そのため,看護士の教育は日本人スタッフにとって重要な仕事のひとつである。具体的には,毎日午後に1,2時間程度,看護士を対象に簡単な解剖学・生理学・らい治療・算数などの講義を行っている。このうち,らい治療の講義は,らい診療員によって行われる。らい診療員とは,らいに限って診断・治療を行うことを許された,らい限定医ともいえるもので,ひとつの資格として認められている。また,算数を教える必要があるのは,現地スタッフには,掛け算・割り算の苦手な人が多く,単位の概念に対する理解も十分でないからである。このように,現地スタッフの養成には,私達が日本で想像していたよりも遥かに強い忍耐力と多くの努力が必要であることを見せ付けられた思いだった。

 一方,JAMSでは,院長のシャワリ先生の指導により,医師達の勉強会が定期的に行われていた。これは,各回毎にシャワリ先生が担当の医師とテーマを決め,担当の医師は与えられたテーマについて調べ,医師全員の前で発表するという形式で行われているそうである。

 しかし,このように努力を続けてはいるものの,現地スタッフのレベルはまだまだ満足できるものではないそうである。本年4月の新病院の開院とJAMS・PLSの統合を前にして,私達の滞在中に全スタッフに対して適正試験が行われたのだが,結果は芳しくなかったそうである。また,看護士に対しては,清潔・不潔の概念を教えるのもこれからだということだ。

 国際協力の現場において,現地スタッフの養成がいかに重要であるかは,現地スタッフの養成がうまくいかなかったために「医療の一方的押し付け」に終わってしまい現地の状況に何の改善も与えられなかったという例をよく耳にすることからも窺い知る事が出来る。しかし,それがいかに困難なことであるかも,今回の研修を通じて垣間見ることが出来たように思う。教育を始めるにあたって,スタートラインが日本とは比べ物にならないほど低いだけでなく,民族性や宗教の違いなど,日本では考えられないような障害に出くわすこともしばしばである。8年近くもの長い間,現地で働いてこられた日本人看護婦の藤田さんは,このようにおっしゃっていた。「ここの医療レベルは,日本のそれと比べればまだまだです。日本の高度な医療のレベルからここを見下ろして批判するのは簡単でしょう。しかし,私達は何もないところから始めて,今ようやくここまでやってきたのです」それは,今まで如何に長い道程を,苦難とともに一歩一歩歩んで来たのか,如何に果てしない道が眼前に横たわっているのか,そして今までもこれからも,歩みの一歩一歩が,如何に地道な努力の積み重ねであるかを感じさせる言葉であった。

 現地スタッフの教育だけでなく,日本人スタッフ自身も日々勉強に励んでいた。パキスタンの公用語はウルドゥー語であるが,患者の中でウルドゥー語を解する人は3 ,4人に一人程度しかおらず,残りはこの地域の支配的民族であるパシュトゥー民族の言葉のパシュトゥー語を話す。アフガン人の中にはペルシア語しか解せない者もいる。さらに医師同士では英語が使われる。そのため語学の学習は欠かせない。夜遅くまで小林先生が藤田さんにウルドゥー語を教わっていたり,朝早くから藤田さんがラジオの英会話講座を聞いていたりという姿を目にすると,本当に頭の下がる思いがし,自らの怠惰な生活を反省せずにはいられなかった。今回,実際に現場で働いている方々と接することにより,今まで日本での活動に携わっているだけでは見えなかった,陰の部分でスタッフの方々が黙々と続けて来られた活動の軌跡に触れることが出来たように思う。国際協力という美しい言葉の陰で,どれほど血の滲む苦闘が繰り広げられてきたか,日本にいてはなかなか触れることの出来ない部分に触れる機会に恵まれたことを,感謝せずにはいられない。

●PLS 患者の動向●

 入院患者  ベット数 40(男25,女15)患者数 29(男20,女9;1988年3月18日現在) らい患者―男11,女4

 PLSではハンセン氏病だけでなく,他の病院で受け入れてもらえない患者をみようという方針のもとに,現在活動を続けている。「他の病院で受け入れてもらえない」理由は金銭的な問題だけでなく,難しい神経疾患の患者であったりする場合もある。入院患者を見ても,ハンセン氏病の他に神経疾患が多く,また,家族性の神経疾患が何例かみられた。このあたりでは,同じ母親からの母乳で育っていなければ(つまり兄弟でなければ)結婚してもよいことになっているらしく,近親結婚が多い。結果,遺伝病も多いと考えられる。(遺伝学的な見方によれば,誰でもなんらかの常染色体劣性遺伝の遺伝子を6〜7種もっており,それが発症する確立は1/100。発症していないパートナーと結婚すると,その子供が発症する確立は1/100×1/100×1/4=1/40000  しかしながら,従姉妹と結婚したりすれば,1/100×1/8×1/4=1/3200と一気に発症する確立があがってしまう。これは特定のキャリアでない場合の話しである。特定のキャリアがいる家系であれば,もちろん発症の確立は上がる。)

・入院患者(メモを取った一部の患者について)

  <<male: M female:F  例 M1: ベット番号1の男性>> M7:リーシュマニア感染の疑い。左下腿部に潰瘍
M5:らい。垂足,兎眼のOPE済み
M8 :新患,リウマチの疑い
M21:gangliosis, 右足,指先の壊死,切断の予定
M12:デュシェンヌ型筋ジストロフィー,11才の少年1988年3月18日現在
M9,M11は兄弟5,6才である。家族性のニューロパチー
M18 :らい。体に4ヵ所の脱覚をともなう皮膚炎あり。重度ではない。
M17:心疾患
M14:らい。B663(M.Lepraeに対する抗生剤)のため皮膚に色素沈着。まゆ, 髭の脱毛。
F1:骨折
F3:20才。 類結核らいで皮下結節あり。抗生物質投与中。
F3:らいのおばあさんなのだが,現在は治療は終わっている。リハビリを継続中。
F6 :4才の男の子 腸チフス

・外来

 感染症,子供の呼吸器疾患,リウマチも多い。感染症の病原菌としては,マラリア,リーシュマニア,赤痢菌,サルモネラ(とくにチフスが問題)などが多い。神経疾患,Leprosyの患者は他の病院から紹介されて来院することも多い。

 月曜日から土曜日まで,3人のドクターが9:00〜12:00くらいまでで10〜15人の患者をみる

私見:

 感染症の患者さんが多いだろうという認識はありましたが,神経疾患が多いことにびっくりしました。他の病院で扱えないだけに,ここに集まってきているということもあるのですが,先も述べましたように風土的な問題と大きく関わってくるのだろう。

 らいの方は,抗生物質を投与するのみでなく,治療経過中にみられるleprareaction(らい反応)とよばれる,炎症性の反応にも気を配らなければならず,また,リハビリも必要です。さまざまな状態の患者さんに対応すべく,スタッフを教育し,看護の体制をたててゆくことは大変なことだと思う。

 現地の状況を,日本と比較して,議論するのはナンセンスですので,ここは状況報告にとどめさせていただきます。

 現地のことを知るには,現地の生活に触れ,そこに生活する人々に向き合うことが一番だと思う。そしてそこで,医療従事者として,そこで求められること,自分の能力でできる範囲のことをうまく探し出しながら活動できれば理想だろうと思った。

 私の目にはペシャワール会のみなさんの活動が,そのような一つの理想的な形として映りました。

●Peshawar Leprosy Serviceの患者から思うこと●

 12日間の研修日程のうちの数日間を,ハンセン氏病の専門病院であるPLSで過ごした。ハンセン氏病の患者に直に接するというのは今回の研修の大きな目的の一つであるが,現在の日本では新たな発病者などほとんどみられない稀な疾病であるだけに,受けた印象は大変大きなものであった。しかし一番驚きを感じたのは疾病そのものではなく,患者の社会的なものを含めたさまざまな背景というものだった。そういった中で,特に印象に残った1人の患者について書いてみる。

 右足が足首の少し上のところからもげている40歳ぐらいの男性がいた。話によれば,半年ぐらい前から足先に痛みを感じるようになったが,医者に診てもらうようなお金などないため,ずっと放置していたらしい。するとある日の朝,目を覚ますと自分の右足がもげ落ちてしまっていたという。その右足を良く見せてもらったが,なるほど,何かに切断されたというよりはちぎれたというような鈍な端を成していた。しかも,無理やりにでなく自然にちぎれたというのが納得のいくような均一で滑らかな端であった。また,逆の左足にも壊死性の変化が見られた。この患者は実はハンセン氏病ではなく(らい菌が検出されなかった?),Buerger病かASO(arteriosclerosis obliterans)による虚血性の疾病ではないかという事であったが,問題なのは診断名ではなく,足がもげてしまうまで放置せざるをえないという患者の背景ではないだろうか。

 PeshawarはPakistanでも大都会の部類に入る。表道りには日本のものと少しも変わったところのない立派な店構えの商店が建ち並び,裏通りには屋台のような出店がひしめき合っていた。わずかの乞食達がその中でウロウロしている場面を見かけたが,そこに住むほとんどの人間は(質素ではあるかもしれないが)生活に困っているようには感じられなかった。実際話を聞くと,町中に住む人たちはきちんとした職業を持ち,現金収入もある上流家庭の人間だという事であった。PLSでは無料で診療を行っているが,こうした人たちを対象としているのではもちろんない。対象としているのは町から遠く離れた山中の村で細々と暮らしている,現金収入などほとんどない人たちである。人が大勢いる村ならば医者の一人ぐらいいるだろうというのが日本で生まれ育った人間の感覚であるが,この国ではそうはいかないらしい。

 Pakistanでは医師というのは超エリートだという。お金持ちで小さい頃からきちんとした教育を受ける事のできた人間の中でも,さらに優れた能力がある人間だけがなれる職業なのである。そんな超エリートが,さびれきった村で利益など全く見込めない診療を行うなんてことがあるだろうか?結果として,Pakistanの国としては医者の数は足りているはずなのに都市に集中してしまって,医者のいない地域は減らずに医師の失業率は上がっていくという状況になっているという。

 こうした状況であるため,貧しい村の人たちは病気になっても医者にかかるお金がないばかりか,かかる医者もいないのである。それで,少々の病気では医者にかからずに,民間療法とも言うべきもので急場をしのいでいるらしい。いよいよ生命の危険にさらされた時になってはじめて,車など通る事のできない山道を馬で駆けぬけて医者のいる町にやってくるのである。先の患者さんはまさにその代表的な例である。足が腐り落ちてしまうほどの壊死であるなら,相当な痛みを伴っていたと思われる。壊死組織には当然細菌の感染が起こるので,場合によっては敗血症を起こして命を落としていたとも考えられる。それが幸か不幸か足が落ちた事によって敗血症を逃れ,やっとこのPLSを訪れるに至ったのである。

 PLSの入院患者たちを見て,なぜこれ程ひどくなるまで放っておいたのだろうと悔しささえ感じさせられる方がたくさんいた。おそらく,この国にこういう人達は他にも大勢いるだろう。さらに,遠すぎてこのPLSまでも来ることのできない村の人達もたくさんいるという。こうした人達がいる限り,中村医師を中心としたペシャワール会の活動は必要とされ,評価を受け続けるだろう。

●パキスタン社会の根底にあるもの●

 この度パキスタンに行って最も印象に残っている体験は,イスラム文化に触れたことである。イスラム教は,パキスタン社会の根底に位置し,人々の生活に多大な影響を及ぼしていることを私は実感した。我々日本人にとってあまりなじみのないイスラム教であるが,イスラム教はキリスト教,仏教と並ぶ列記とした世界三大宗教の一つである。地球人口の5分の1近くの人に影響力をおよぼしており,今なおその数は拡大しつつある。このようなイスラム教にパキスタンの人の約97%が帰依していることに鑑みても,パキスタンのことはイスラム教抜きには語れない,と言っても過言ではないと私は思う。そこで本稿ではイスラム教が,人々の生活様式や精神構造に与える影響について述べ,さらにそこから翻って我々自身の生活を照らしてみたい。

・コーランの精神

 イスラム特有の生活習慣については現地に行く前よりいろいろ注意するよう言われていた。コーランの教えは人々の生活に浸透しており,飲酒はタブー。女性は夫以外には顔をみせてはならないことになっている。

 このような一見我々には理解できそうのない規律の背景には,イスラム独特の人間観が存在するという。以下,民俗学者片倉もとこの考察を参照したい。「イスラムには人間は本来弱いものなのだという認識が存在する。したがって誘惑に負けやすくなるような状況をつくらないことにする。性的誘惑に対しては男は特に弱いから,女は髪の毛もおおうベールをつけて,弱き男をまどわさないように協力する。また,人間を麻痺させるもの。たとえば酒のようなものは,禁止したほうがいい。「弱い人間」に酒を飲ませると,なにをしでかすかわからないからだ。」

 このようにみると,コーランの教えは,人間は弱いものなのだという深い洞察に裏打ちされていることに気づかされる。そうすると 見た目の厳しさとは裏腹にイスラム社会のやさしさを垣間見ることができるように思う。

・祈りが根底にある生活

 パキスタンでは何度も祈りの光景に出会ったものである。最初の強烈な場面は北京よりパキスタンの首都イスラマバードに向けて発った飛行機のなかだった。飛行機の乗客のうち50人くらいが集団で祈り始めたのである。日没前と就寝前に。どこでも祈るという噂は聞いてはいたが,まさか飛行機でも立ち上がって祈るとは思ってもいなかったのでかなり驚いた。メッカに巡礼に行く途中の人だったようだ。また我々が見学した病院のなかでも印象的な祈りの姿をみた。最もこころに残っているのが私にいろいろ教えてくれた看護士の姿だ。彼は入院患者のひしめく病棟で仕事中でもお祈りの時間になると,その場で地べたに跪き,祈りを唱えだした。その敬虔な姿は美しくさえあり,その姿をみた私までもが心を洗われるような気持ちになった。

 大きな力の前では人間は無力であることを知る者は自然に祈ることでき,その結果そのような大きな力によって我々は生かされているという恵みを祈りを通じて感じることができるように思う。イスラム教徒は一日に5回,このような祈りの時間を持つ。しかも朝の5時から。ある意味では祈りが最優先で,その合間で仕事をしているといっても過言ではないかもしれない。まさに祈り,宗教が生活の根底に存在する世界である。哲学者井筒俊彦はこのようなイスラムの生活を次のように描写している。「イスラームにおいては,宗教は人間の日常生活とは別の,何か特別な存在次元に関わる事柄ではない。人間生活のあらゆる面は根本的,第一義的に宗教に関ってくるのです。個人個人の純粋に自分だけの実存も,家庭生活も,社会における他人との公共の 結びつきも。個人的,家族的,社会的,民族的,国家的,およそ人間が現実に生存するところ,そこに必ず宗教がある。そしてこのように人間存在のあらゆる局面を通じて,終始一貫して「コーラン」に表れている神の意志を実現していくこと,それがイスラームの見る宗教なのです。」

・日本における我々の日常

 体験することなく僕らはたくさんのことを知っているつもりになっている。それだけで自分のものにした気になっていることがどれだけあることだろう。私は祈りのある生活の素晴らしさを,モスクの静寂のなかで実感したように思う。あるパキスタン人は,一日に5回も神と向かいあえば悪いこともできないと冗談まじりに言っていたが,あながち嘘でもないと思う。彼らは根底に祈りを持った生活を送っており,何もしないことをする時間を持てなくなっている我々と違った価値観をもっていてもなんら不思議でないし,彼らの方がよほど人間らしいと私は思う。休暇ですら,仕事の骨休めための休暇,家族サービスのための休暇になってしまう我々の生活は何か違っていると言わざるをえない。祈りとはなにかのためにするといったようなものではない。祈りそのものが,そうすべき大事なことなのである。自分はそのようなことを大切にしていなかったことを思い知ると同時に時間的空間的にそのような「場所」を持ちにくくなっている状況に気づいた。そしてパキスタンにはそれがあったのだ。

 
<おわりに>

 今回の研修にいたるまで,実に一年以上の歳月をかけて,準備を進めてきた。日本のハンセン病療養所である多磨全生園での研修・菊池恵風園の見学,ペシャワール会事務局の活動への参加,勉強会・・・そして研修を終えた今,さまざまな思いが胸のうちを交錯する。

 日本での勉強に続き,現地の活動を見学することによって一層痛感したのは,日本とはまったく異なる文化・宗教を持ち,全く異なる歴史を背負った外国において医療協力を行う際には,現地の人々と同じ目の高さから物を眺め,共に歩むことがいかに大切であるか,そしてそれが如何に地味で目立たぬ努力の積み重ねであるかということであった。これは当たり前のようだが,実行するにあたっては,様々な障壁を乗り越えねばならない。しかも,それらは決して華やかなものではなく,人知れぬひっそりとした活動である。また,今回の研修を通じて,イスラムの世界に触れることができたのも,貴重な体験の一つであった。

 今回の研修にあたって,快く許可してくださったペシャワール会事務局の方々,ご指導下さった先生方・熱帯医学研究会の先輩方,そして報告書の作成にあたって原稿 をお寄せ下さった信州大学医学部4年の脇元洋果さん・九州大学医学部5年の森下博文 さんに,この場を借りて厚く御礼申し上げます。