序文 1998年夏、我々はタイ国において研修を実施した。その報告を以下に記す。研修の動機はきわめて単純に、ただタイを見てみたい、ということであった。まともに国外にでたことのない人間が四人ほど集まって、なにがあるかわからないけれども、とりあえず外国を見てみたい、外国に行こう、という動機でこの斑はできた。ただ観光に行くよりも、もう少し何か足しにしたい。向こうの人と話もして、あ樊cば友達にもなりたい。そんな経緯で、我々はこのプログラムに参加した。 1,実施国、都市名 タイ国 サラヤ マヒドン大学 AIHD (ASEAN INSTITUTE FOR HEALTH DEVELOPMENT ,Mahidol University Salaya THAILAND) 2,実施期間 1998年8月1日〜8月11日 3,参加メンバー 熱帯医学研究会 部員4名 4,研修内容 今回参加した研修プログラムの正式名称は「16th International Training Program on Integration of Health and Social Development:Thailand's Experience」という。本研修の意義は、タイに代表される、途上国における健康並びに社会問題とその解決策、さらに開発との関連に対する認識を深めることにある。プログラムは大まかに三部によって構成される。第一部は健康と社会発展に関する基礎知識の導入、第二狽ヘ都市部における健康・社会問題、第三部は地方における保健的発展と社会的発展の融合を主題とする。学習方法は、座学、施設の見学、野外調査と多岐にわたる。 第一部では、まず、開発途上国における医療問題の認識から始められた。それは、(1)病気の種類も病人も多い、(2)医療従事者も施設も少ない、(3)医療の極端な都市への偏在、(4)手薄な保健行政、(5)貧しい国の高価な医療制度、(6)近代医療技術の未開発、の六つに集約される。これに関連して、先進工業国との社会的経済的格差、及びそれらの連関が強調された。曰く、幼児死亡率、乳児死亡率、平均寿命などの基礎指標は、一人あたりGNPと密接な関係にあり、それはまた識字率とも関係してくる、と。またそれらの問題は互いに複雑に絡み合い、悪循環を形作っている。 タイ国においては、その悪循環を断ち切る方法としてプライマリーヘルスケア(PHC)を導入した。これは、先進国型の医療体制に加えて補足的な医療制度を展開し、医療費の軽減・医療資源の増加とよりよい分配・技術依存の軽減をねらうものである。そもそもPHCとは、1978年アルマ・アタ会議において、同会議にて採択されたアルマ・アタ宣言のスローガンである「Health For All by the Year 2000」(HFA/2000、「2000年までに全ての人々に健康を」)を達成するための中心的戦略として推進することが提案されたものである。PHCの実際活動はそれぞれの国、あるいは地域によってさまざまなも のが展開されていたが、タイでは次のような活動が行われてきた。 PHCは三つの部分から構成されている。PHC分野、PHCアプローチ、PHC活動である。 PHCの分野:(1)健康教育の普及、(2)風土病の予防、(3)生活環境改善と安全な飲料水 、(4)母子保健と家族計画、(5)予防注射の普及、(6)栄養改善、(7)簡単な病気の手当、(8) 必須医薬品の配備 PHCアプローチ:(1)住民参加、(2)適正技術、(3)地域資源の最大限有効活用,(4)各分野の協調と統合、(5)既存の医療制度との調和 PHC活動:(1)Village Health Volunteersの養成及び活動、(2)コミュニティーPHCセンターの設立及び運営、(3)村落PHC基金の設立及び運営 我々は第三部で保険的発展と社会的発展の融合と称してそのPHC活動の実際を見学 した。詳しくは後ほど述べるが、結論からいうと、多くの国々においてPHC活動は失敗又は望んだような成果が得られなかったのに対して、タイにおいては比較的成功しているようだ、という感想を抱いた。 次に、第二部としてバンコクとその周辺におけるさまざまな保健施設を見学した。 ・Kred-trakarn Home For Socially Handicapped Woman 1960年に、主に売春婦の保護施設として、内務省のもと設立された。性感染症やその他の病気の治療、一般教育の提供、瞑想や行動修正による精神健康状態の回復の三つを主な目的としている。 我々が訪れたときには、収容者の60%は夜遊びをするなどの理由で保護者につれてこられ30%は自ら来所し、残りの10%は18歳未満という理由でNGOや警察から連れて こられた人々であった。また、一度出所してもまた戻ってくる人の割合について尋ねた際、18歳以下の売春婦しか保護されないため、また限られた予算(千五百万バーツ/年)は収容者のために優先して用いられるべきであり、追跡調査等は行っていないため、把握していないとの回答を得た。 施設内には、図書館、運動場、保健室、育児室等が完備してあり、職業訓練にも熱心であったが、全体としては、施設自体は大変立派だが、これはあくまで駆け込み寺であり、積極的に売春婦の更正・売春の撲滅に取り組もうとしているわけではない、またタイ政府も売春の撲滅に力を入れているわけではないのではないか、というのが率直な感想である。 ・ Foundation For The Welfare Of The Crippled 障害児のための福祉施設である。1954年に設立され、1955年からHer Royal Highness,the Princess Motherによって王室から支援を受けているが、この施設自体は最近つくられたもののようである。広大な敷地に、学校やリハビリテーション室など大変近代的な施設が完備してあり(コンピューター等は我々が日頃用いるものよりも良いくらいであった)、実際の活動も日本における同様の施設と何ら変わりないものであったが、如何せんノウハウ不足を感じた。用いる器具や指導に当たる人々もまだまだ試行錯誤の段階のようである。 ・ The Industrial Rehabilitation Centre 1990年、労働の結果として持続的な障害を負った労働者や社会保障活動にしたがって保障された人々に対して医学的・職業的リハビリテーションを施すため、日本との協力との下、労働社会福祉省、社会保障局の組織として設立された。 この施設では、理学療法、職業療法、整形外科・人工補綴などの医学的リハビリテーションと、木彫、機械工作、自動二輪修理や精密機械工作から自転車修理や縫製、軽印刷、コンピューターに至るまで(興味深いところでは冷蔵庫・冷房コースというのもある)多種多様に至るさまざまな職業リハビリテーションを無料で受けることが出来る。搭覧」在住の場合、敷地内の寮も無料で利用することが出来る。また、ここにある義手や義足の工場は日本で研修を受けた技術者を擁しており、タイ国内で唯一の認定工場である。この施設も、広大な敷地と豊かな緑が印象的であった。 しかしながら、この施設はあくまで労働中の事故で障害を負った人々専用の施設であり、交通事故等の人々には適用されていないこと、その施設内に国内唯一の認定義肢工場があること、すでに時代遅れになって全く利用されていない施設があることなどには多少の矛盾を感じざるを得なかった。さらに、この地域一帯には日本企業の工場が進出しており、その不満を吸収する形でこの施設が設立されたこと、施設の殆どは日本製の器具や機械で埋められていたことなどは、予想の範囲ではあったが、途上国における日本の有りようというものを垣間見た気がした。 ・ Tanyaburi Women Drug Addict Rehabilitation Center この施設は、1979年に設立された。その活動は、薬物犯罪を犯して10年未満の刑を受けた女性収容者の拘留と、特に薬物中毒者に対して心理的肉体的治療や職業訓練を行うことによって矯正・社会復帰させることである。 この施設では、心理療法の一環として態度・行動面での変化の推進や自己概念と自尊心の向上を目的としてTherapeutic Communityというものを導入しているのが特徴的である。これは、薬物犯罪者のなかには、幼少期あるいは現在、家庭内に何らかの問題を抱えているものが多く、それが心理的問題を引き起こし、薬物犯罪の一因となっている、という考えから、それを補完する目的で、擬似的な家族の様な集団を構成するものである。 タイは、麻薬の産地として悪名高い黄金の三角地帯(タイ・ラオス・ビルマの国境付近)に近いという地理的要因もあり、薬物(70%が覚醒剤で、残りの30%がヘロイン)が大きな問題となっている。そのためか、この施設でも中毒者と売人は分けて取り扱うなど認識の重大さがうかがえる。 実は、今回の研修のなかでこの施設はもっとも印象に残った施設のひとつである。なによりもまず雰囲気の違いが感じられた。施設全体に緊張感がみなぎっているのである。それはこの施設のみ写真撮影が全面的に禁止、また忘れ物をしても二度と取りに戻れないと注意を受けたことからも推測できよう。 また、タイ人の同行者から、我々が収容者から挨拶をされても、我々は敬意を表する挨拶をする必要はなく、かえってそのようなことはしてはいけない、といわれたことも印象に残っている。さらに、収容者は50畳ほどの部屋に100人近くが寝泊まりし、トイレもその部屋に備え付けのものを使い(目隠しもなにもないのである)、水浴も野外で行うなど、タイにおける犯罪者への扱いは衝撃的でさえあった。 だが、薬物犯罪のきっかけとなったのは、貧困のほかに流行や好奇心、あるいはある種の薬物が(なんと市井の薬局で)簡単に手にはいることなど、その原因は日本と大差ないという感想を抱いた。 これらの施設を見学の後、我々なりの感想と意見交換のための組別発表を行った。そ際、やはり貧困と教育不足が大変大きな問題としてあり、また売春に関して、観光に経済を大きく依存するこの国ならではの問題も無視できず、さらにそれぞれの問題がお互いに原因と結果として複雑に絡み合っている、といったことが議論された。 最後に我々は、第三部として地方における保険的社会的発展の融合と題して、農村部の病院等を見学し、また実際に農家に逗留して多少なりとも農村部の現状と雰囲気を体験した。 ・ Prahon Pon Payuhasana General Hospital ・ Chao Kun Paiboon Community Hospital 上記の二病院はその規模に大きな違いがある。かたや400近いベッドを持ち、年間予算も三億バーツにのぼるのに対して、Community Hospitalの方は60床、二千万バーツにすぎない。地域内にはGeneral Hospitalと同様の規模の病院が全部で2つ、Community Hospital規模の病院は全11個存在する。それぞれタイの保健システムのなかでは位置づけが全く異なっており、Community Hospitalは主に軽い傷病を扱い、General Hospitalの方はCommunity Hospitalでは対処できない傷病を主に扱うことになっている。そのため施設自体にも多少の差異が認められる。General Hospitalには社会保健業務専門の部署が存在し、治療費等についての事務などを行っている。一方Community Hospitalの方は、General Hospitalほど充実した医療器具や施設、人材は無いものの、ICUや血液バンクもきちんとあり、一通りの医療行為は問題なく行えるようになっている。また興味深いのは、Community Hospitalでは伝統医療を積極的に取り入れており、痛みや循環器系、それに一部の整形外科領域の治療としてタイ式伝統的マッサージや薬草サウナを行っていた。 両病院とも救急車らしきものは一応持ってはいるが、連絡体系の不備を理由に実際に出動するのは週に二回程度ということであった。事故にあったら誰かが病院まで連れてくる、というのが一般的らしい。ちなみに両病院とも来院理由の一位は交通事故である。 Community Hospitalにおける三大死因は心不全、事故、悪性新生物であり、General Hospitalにおいては事故、肺炎、AIDSである。これは(AIDSをのぞくと)およそ30年前の日本の状況に酷似しており、この分野でもますます両国の協力が望まれるところである。また、この国の保険制度は大変充実しており、交通事故の際は完全に無料で治療が受けられる。ほかに、一度購入すると五人で一年間無制限に医療が受けられるHealthCard制度や、工場や企業などで働く労働者には日本の国保や社保にあたる制度(企業と国と本人の給料から保健代が供出されており、無料で医療を受けることが出来る)が完備されており、またそのいずれも利用不可能な場合には無料で医療を受けることが出来るなど、ある意味日本より恵まれた保険制度を取っている。 個人的には、どちらの病院も平均入院期間が5日程度と日本のそれと比べて大変短いこと、ベッド利用率が100パーセントを越えていること、個室がとても高価なこと、費用が両病院で一律でないこと、General Hosptalは紹介患者が多いはずなのに、実際は殆どの患者が初診でそこを訪れること、Community Hospitalに病院職員専用の保育園があったことなどが印象に残った。 ・Dong Rung Village この村のHealth Centerはタイ全国で二番目に優秀であると認められており、飲料水の確保、家族計画の普及、簡単な傷病の治療、緊急時の出産などありとあらゆることに対応できるようになっていた。 この村の基本産業は農業であり、その多くは米作である。しかし、タイでは農家一軒一軒で脱穀・精米せず、直接精米業者に売るというのが一般的であり、その収入は多くない。また昨今の経済危機において、米の価格(彼らは自分で作った米を食べているわけではなく、自分たちの食する分も買っている)は急騰する一方で、彼らの収入はそれに見合うほど増えているわけではない。このような経済的不安定から脱却するため総合農業を試みるものもある。立派な家に住んでいた彼は、そのために日本に留学したといっていた。しかし農業用の機械の多くは高価な輸入品(主として日本から)であり、その購入にかかる費用も並大抵ではないということであった。 しかしながら、この村には基本的に貧窮者の姿はなく、PHC制度も立派に機能しているようであった。この中で、私は特にHealth Volunteerという制度に興味を抱いた。゛はこの村において保健教育、簡単な施療等を行っているのだが、この制度は日本でも導入できないであろうか?日本の制度や雰囲気にはなじまないという感触も確かに持ったが、もしうまくいけば老人問題や共同体問題等の解決の糸口になりはしないか、という希望も抱いた。 余談であるが、我々はこの村を訪れた最初の日本人であったらしい。そのためもあろうが、この村の人々はとにかくサービス精神にあふれていたように感じる。我々を歓待するために伝統的な結婚式を開いて見せてくれた。ただ、踊り好きが高じすぎたのか、4時間も踊らされたのは少々参った。ともかく、少なくともあからさまに悪意を表す人は一人もなく、無理難題に答えてくれ、あまっさえお土産まで頂いてしまった。日本人全員が「いい人達だった」といったのは、安直がすぎるであろうか? あくまで浅薄かつ個人的な意見としては、PHCシステムは成功しているようにみえるというのが正直なところだが、我々が訪れた村は、あくまでも理想に近いところであり、それ故PHC制度もうまく機能していたということは否定できない。その点が今回の研修の最大の欠点であり、最悪に近い状況の箇所も含めてタイ全土を見渡さずにPHC制度の是非を問うのは早計であるということは承知している。 5,感想 今回の我々の研修目的は「人生の糧にする」という大変あいまいなものであった。言い換えれば,「無目的」を目的としていた。現地で見聞きすることそれ事態が目的であったといってもいい。従って,本研修の主な目的とも言える,各人の感想を以下に記す。 ・柳田 諭 今回の研修を終えてもっとも感じたことは、実は日本のことであった。日本は高い国内総生産と引き替えに日本というものを失ったのではないか?きっかけは日本とタイの差を考えたことである。タイの社会システムは戦前の日本と似ているところも多い。だが現在の経済規模あるいは社会の差は著しいものがある。この差は何であろうか?私は、その原因をGHQに見いだした。GHQが日本の再建に貢献したことは論を待たない。しかしその影響は日本人のアイデンティティそのものにも及んだ。効率と情報処理能力にひどく傾斜した社会は社会的経済的治安を脅かす倫理危機をもたらしたが(…効率と情報処理能力を重視するあまり非効率的で不安な社会をつくった、というのはなかなかの皮肉である)、それには前出の理由に加えて(西洋の技術のみを輸入してただでさえ疲弊している)日本の上から(計算された理想の、すなわち非現実的な)アメリカをかぶせた弊害が影響している、というのが私の考えである。三重構造と共に直進できる人間は多くはあるまい。日本人が迷走するのも無理はない。なかには走ることをやめた者もいる。確かに日本は豊かである。タイとは比べるべくもない。しかし、そのために払った代償も少なくはなかったことを実感した。そして、そのことは知っていても良いはずである。 閑話。日本人や日本政府の危機管理能力の貧困というものが昨今取り沙汰されているが、それは倫理危機に関しても言えることのようである。この何となくのんきな気質はむしろタイのそれに近い気がする。 今回の研修においてもっとも示唆に富んだ一言は、行動を共にしたタイ人の学生によるものであった。次の日のプレゼンテーションに備え、六時間以上も討議や翻訳に頭を悩ませた我々につきあってくれた彼は、何気なく「やっぱり日本人というのは几帳面だ。タイ人なら十分で終わらせるよ」といった。彼は英語に堪能であり、二年飛び級をしてタイ随一の大学の医学部にはいった俊才であるが、そんな彼でもそんな感覚の持ち主であるという事実は、私を黙考せしめた。頼みもしないのに都市学習の際のプレゼンテーション準備にも午前4時までつきあってくれるような性格の持ち主である彼の一言は、非常に印象深かった。 閑話休題。 今回の研修では、さまざまな施設を見て回って得るものも多かったが、それ以上にさまざまな人に出会ったことがなによりの収穫であった。タイの学生や農村の人々と直接話す機会に恵まれたことは大変幸運であったと思う。それも含めて、タイの現状理解という点では予想以上の収穫を上げられたと断言したい。 ・後藤 翼 タイでの研修で1番自分のためになったと思えるのは,フィールドワークだ。施設見学にしろ,village stay にしろ,日本にいてはできない経験ばかりだっただろう。タイで目についたのはやはり衛生状況だ。 まず,町中の排水設備。すさまじい大雨だとはいえ,わずか数時間で道路が川のようになり,濁水であふれ,ゴキブリやネズミが群れている状況では様々な感染症に対する罹患率が下がらないだろう。くつやズボンがずぶぬれになった私はその悪臭と,水虫などの心配のために,後々まで頭を悩ませることとなった。 次に,ハエ,カ,をはじめとする虫の多さだ。ホテルなどではそんなことはないが,ハエがたくさんとまっていた食べ物をそのまま口にしたりする光景がよくみられた。おいしそうなジュースのシロップにハチがたくさん浮いていたため,そのジュースを飲む気がおこらなくなったこともあった。 さらに,調理場をはじめとする食堂の管理状態。床は常に水たまりなどで濡れており,細菌の繁殖には絶好の場所のように思われた。 また,道を歩いていると,たくさんの犬を見かけたが,一見して皆一様に皮膚等に病気を持っていて,「日本のように気安く犬に触ると危険だ」と注意されたことがうなづかれた。ちなみに,日本のようにペットとして犬を飼って可愛がることは少ないようだ。 政府はPHCを推し進めると同時に,こういった方面での改善に今以上に力を注いでも良いのではないだろうか。 そうそう,あと1つ気になったのは,私が目にした赤ちゃんのほとんどはおむつもつけず,おしりを丸だしにしていたことだ。「これって大丈夫なのかなあ。」とか,「蒸れなくて良いのかも」とか色々考えてみたが,けっきょくわからずじまいだった。ムムム・・・ ・樋口 香苗 私は「タイでこういう医学的なことを勉強して,よく理解でき,こういう風に考察します」と胸を張って言える立場ではない。PHCの仕組みは分かったが,それについて考察するには,まだ知らないことが多すぎる。それに正直言って,私には授業よりそれ以外のことのインパクトのほうが大きかった。 出発までのわたしの用意は,全く不十分で,向こうでは困ることだらけだった。一番困ったのは言葉(英語)の問題である。一応勉強はしていたのだが,全く分からなかった。なまりの問題もあるだろうが,かなり自信をなくしてしまった。 それと,私には全般的な知識量,教養がたりないということを,身にしみて感じた。タイ人でも,日本人でも,話し合いの場で中心になる人は,本を読んだのか,実際見てきたのかは,分からないが,びっくりするほどいろんな事を知っている。私には受験勉強の知識はあっても,有意義な会話ができるような教養はなかった。 もちろん大変だったことばかりではない。たくさん楽しいことがあった。特にビレッジステイは思い出に残った。村をあげての大歓迎,ウェルカムパーティは特に感動的だった。一緒に踊っていると,言葉は通じなくても何か通じ合うものがあった。みんな親切で,フレンドリー,暖かい人達だった。それは,参加していたタイ人学生にも言えることだ。国民性というものは本当にあるのだと思った。 タイでの様々な経験は私の世界を広げたように思う。世界を広げたというのは二つ意味がある。ひとつは,日本とは,違う文化に触れ,違う国民性の人々と少しでもコミュニケーションをもてたことである。日本にいると,どうしても他の国のことは無関心になりがちだ。しかしタイにいって,他の国に興味を持つことができた。もうひとつは,熱意のある人達に出会い,自分の勉強不足に気付くことができたことである。この研修に参加した人のほとんどは,本当に国際保健に興味があって,頑張って探して,この研修を見つけたのだと思う。それに比べて,私は探す苦労もせず,お金まで出してもらって参加できて,ラッキーだった。もちろん興味がなかったわけではないけど,ずいぶん軽い気持ちだったんだなと思った。私も,いろんな事に積極的になって,ディスカッションでももう少しましなことをいえるようになりたいと感じた。そういう風に感じることができただけで,研修に参加した意味があったと思う。 ・外間 政朗 タイにはすごい学生がいた。その名をブウアといった。彼はこの研修のタイ人参加者の一人で,研修参加者全体のリーダー的存在であった。 彼はとても英語がうまかった。概して,タイ人の英語はアクセントやイントネーションが独特で,欧米英語で勉強している日本人には非常にわかりずらい。しかし,彼の英語はそういうのがなく,日本人にわかりやすいものだった。 彼は笑顔がとてもさわやかだった。彼がまえにでて,にっこりほほえんでまゆげをぴくぴくさせるとその場の雰囲気がなごんだ。 施設などを見学にいったときそこのおえらいさんが英語で説明してくれても日本人参加者はほとんどわからなかった。そこで彼は自らまえにでて,マイクをとり,”I will summarize for you.”といってわかりやすくいいなおしてくれた。日本人が質問して,おえらいさんが上手く英語で答えることができずこまっていると彼はおえらいさんからマイクを奪い,かわりにこたえていた。そのうちおえらいさんも彼に任せたほうがいいと悟り,まかせっきりにしていた。 また,学習面以外でも,とても面倒見がよく,日本人参加者を助けていた。僕が宿舎の公衆電話から国際電話をかけれずにこまっていると,ここはこわれているからといって,他の所に案内して国際電話のかけかたをおしえてくれた。とてもたすかった。 彼はさいしょ自分は5年生だといっていた。そう思っていたから彼のすごさをまのあたりにしても,さっすが5年生,としかおもわなかった。しかし,のちに彼は飛び級していて実は年下だったとしったとき,愕然とした。しかも,タイで1,2位をあらそうマヒドン大学で学年トップらしい。 彼は将来タイをしょってたつ男になるだろう。目標にしたい。でも残念ながら日本をしょうなんて大きいことをいえるほどの力はぼくにはない。が,せめて,琉球くらいはしょって立ちたい。 時間の進み方から命の重さまで違う国の、なにがしかはもって帰った。人生のこの時期にタイを訪れたことは大変良い経験であった。「タイは若いうちに行け」というタイ政府(?)の主張(?)は正しい。 最後に、この研修に参加するにあたってご助力下さった全ての人々にお礼を申し上げたい。 本当に有り難うございました。 |