インド、コルカタにあるマザーテレサの『死を待つ人の家』では、マザーが設立したキリスト教修道会『神の愛の宣教者会』を中心とした、貧しい人々への医療活動(疾病治療、介助、看取り)を行っている。ボランティア活動することで、終末期医療について、そしてまた将来医師となる私たちの、助けを必要とする人々に対する考え方、接し方などを身をもって学ぶ。
西田有毅(九州大学医学部4年)
小野宏彰(九州大学医学部4年)
宮原麗子(九州大学医学部4年)
村上剛史(九州大学医学部4年)
吉川智子(九州大学医学部2年)
河原隆浩(九州大学医学部1年)
(この報告書は、今回訪問することのできた5つの施設について訪問した班員がそれぞれ担当して書いています)
インド、コルカタ。2004年8月4日〜14日。
4年 村上 剛史
カルカッタの空港に着くなり周囲から独特の雰囲気を私は感じた。インド人一人一人から醸し出されるオーラなのか、それともこの国自身が織り成すものなのかはわからないが他の国とは全く違う異質のものである。
タクシーに乗って市街地まで行く際、クラクションが耳に鳴り響き、町に人が溢れんばかりにいる喧騒の中を走り抜けている中で自分はインドにいることを実感した。そして自分の足で町を歩いている時にも、街中の熱気、そこら中に溢れているごみ、それらから発される臭いなどから、私にとっては今まで経験したことのない、ある意味新鮮な空気を体全体で感じた。
インドでは私たち日本人から見ると様々な非日常的な光景が目に飛び込んでくる。小さな子供をつれた物乞いをする母親。目が合うなり「バクシーシ」と言いながらお金を要求してくる子供たち。路上で生活している母子家庭の集団。肘のあたりから腕がなくなっていて、うつぶせのまま残った部位を動かし、毎日毎日同じ場所で物乞いをする男。そのような正直心が痛むような光景は多く見られた。しかし現地の人にとってはそれが日常なのであろう。別に気にとめるわけでもなく素通りするような人がほとんどである。助けても際限がないからなのか?自分たちには他人を助ける余裕がないからなのか?やはりカーストが根強く残っているからなのか?色々な理由は考えられる。
五十年ほど前は、思わず目を背けたくなりたくなるようなけがや、あまりにも悲惨な病気を患った人たちは現在よりもさらにずっと多くいたに違いない。誰からも必要とされず、貧しい人たちの中でも最も貧しい人たち(The poorest of the poor)といわれる人々を決して見過ごしたりせずに、献身的に尽くすことを始めた人がマザーテレサである。
MOCとは日本語で「神の愛の宣教者会」という。マザーテレサと若いシスターたちが二年以上にわたって貧しい人々、困窮者たちへの献身的な奉仕を行ったことで、1950年に正式にローマ教皇から認可された修道会である。現在ではMOCの施設はインドだけで200ヶ所、世界中に700ヶ所、日本には東京(三野・足立区)、名古屋、別府に4ヶ所あるという。
熱研の活動としてのインド班は今回で三回目であり、また六人という人数に恵まれたこともあってカーリガート(死を待つ人の家)だけでなくシュシュバワンを始めとした比較的小さな子供たちを対象としている施設でもボランティアすることができた。それらの施設の紹介は後述していく。
私たちは毎朝七時に、活動の拠点であるマザー本部に集合し、そこで食パンとバナナとチャイの朝食をとってから、多くのボランティアの人たちと一緒にそれぞれの希望する施設にバスなどで移動していた。そこではおよそ百人もの人たちがヨーロッパや東アジアなど世界中から集まっていた。一日で帰る人もいれば何年も働いている人もいて多種多様であった。目的は人それぞれではあろうが、これだけたくさんの人たちが来ているのには驚き、そして感動した。マザーの影響力は死してもなお、色褪せることなく世界中に浸透していき、これからも人々を魅了し続けその心に刻まれていくことだろう。
そこではまた、朝6時と夕方6時からミサが毎日行われており、一度だけ見学させてもらった。礼拝堂の中は非常に簡素なつくりで、室内にはマリア像と教卓があるぐらいだった。シスターを始めブラザーやカトリックのボランティアの方々が聖歌を歌ったり聖書の朗読などをされたりしていた。私には非常に張り詰めた空気と厳かな雰囲気、そしてシスターたちの真剣な眼差しが印象深かった。
ニルマル・ヒリダイともいいベンガル語で“清い心の場所”という意味である。マザーが1952年に開設された最初の施設である。病気で貧しく、死にかけている、特に誰からも愛されず必要とされていない人々を収容し安らかな死を迎えられるようにすることを目的とし、始められた。この施設のすぐ近所にはカーリー寺院というヒンドゥー教の女神を祀ってある寺があり、その境内では連日カーリー女神に捧げるために何匹ものヤギを斬首していた。わずか半径数100m内で二つの宗教の特徴的な側面が見られるのが非常に興味深い。ただそこもまたインドらしいと言えそうではある。
カーリガートに収容されている人々は、ブラザーやシスターが駅や路上で見つけてきたり、救急車が受け付けてくれなかった人たちなどである。ベッドは男女ともに約50床ずつほどあり、非常に簡素な浴場とトイレ、ボランティアの人たちが中心となって行う洗濯場、そしてその奥には小さな霊安室がある。洗濯室などの水場は水はけが悪く、大雨が降った日には膝下ぐらいまで水が溜まっていた。
初めてこの施設を訪れたとき、部屋中に敷き詰められたベッドの上に多くの患者の方々が横たわっている姿を見た瞬間、自分はきちんとやっていけるのか?という不安や戸惑いを正直感じた。やはり写真で見たり話を聞くだけでは感じることができないほどこの凄惨な光景やその雰囲気はインパクトが強烈だった。しかし、エプロンや手袋をつけ日本人のベテランボランティアの方に仕事内容や感染症に気をつけるよう説明を受けていくうちに、与えられた仕事をしっかりこなしてやろうという意欲が湧いてきて、懸命に作業していくうちにここの光景にも慣れ、不安はすぐに解消された。
仕事内容は食事の配膳と食事介助、入浴介助、シスターらの指導による薬剤の投与、排泄介助、食器洗いや洗濯、マッサージなどである。
患者さんの中には一人で食事することはもちろん、トイレに行ったり入浴もできるような元気な人も何人かはいたが、ほとんどの人は入浴する際、私たちが一人一人抱えて浴場まで移動していた。かなりやせ細った人が多いとはいえ成人男性を何人も抱えるのは重労働である。一つのタオルで体だけでなく髪や顔も洗った後に、きちんと全身を拭いて服を着させてから、また各人のベッドに運んでいった。
洗濯は足で踏んで洗ってから手で絞るという地味ではあるがかなりの力仕事であった。排泄介助は当然だが、衣服にも排泄物が付着している場合があるので洗濯するときも感染に気をつけ、手や足に傷があったら洗濯は控えていた。洗濯場のすぐ近くで患者さんたちの食器を洗っていたのだが、感染予防のため当然ここではわれわれボランティアが使用するものは洗うことを禁止されていた。しかしコップは全く同じステンレス製で、ふちに二重線が入っているか否かという違いしかないので、紛れて一緒に洗われているのを見たことがある。非常に危険なので色や素材を変えるべきだと思った。
患者さんには一人ずつカルテらしきものがあり、それを参考にして投与する薬剤を決められてはいたようだが、あまり厳密には配布されていないように思えた。それに治療を目的とした薬剤はあまりなく、ビタミン剤などがほとんどであった。人よっては薬をすりつぶして水に溶かすなど飲みやすいようにして渡すこともあった。シスターやブラザーだけでなく医療の心得があるボランティアも傷口の消毒や注射を行っていたが、手つきなどを見ると素人同然のような人もいた。それに積極的に治療を行っている人に限って手袋をしていなかったように思われる。直接素手で傷口に触れられることは、一見より慈愛に満ちた姿勢に見られかねないが、それが原因で治療者本人が感染し、そこからまた患者さんたちにも感染を広げる悪循環を生む恐れがあるので、そこは手袋を着用するなどして冷静に感染予防を行うべきだと強く思った。しかし道具や知識のない一見悲惨と思われる現場で、スタッフの方々の献身的でひたむきなたたずまいから医療の原点ともいえるものを発見できたと思った。
たくさんのスタッフがいるので仕事が早めに終わることはよくあり、そのような場合は積極的にマッサージをしていた。当然私はマッサージの経験などはなく、上手いわけでもないがみんな気持ちよさそうにしてくれ、中には眠りだす人もいた。そういった表情を見ると私自身も純粋に嬉しい気持ちになれた。人と人の触れ合いが如何に重要で、孤独感を無くし、平穏を生み出すものかということを心で認識した。
午前中は以上のことを行い、10時半から30分ほどの休み時間があり、バナナやチャイなどの軽食を取ったあとに昼食の食事のお世話をしてから終わっていた。午後からは入浴や洗濯がないので食事介助やマッサージが主な仕事で比較的楽ではあるが、午前中だけで心身ともに疲れるのでほとんど午後のボランティアは控えていた。
ここでは実に様々な患者さんがいた。上半身を広範囲に火傷した人、頭を怪我して意識のない人、寝たきりではあるが積極的にタバコやラジオを要求してくる人、とても短気だが機嫌がよくなるとお金を欲しがる人などなど。またボランティア最終日に、知的障害者だと思われる人が搬送されてきたのだが、右足が完全に腐れており指がほとんど朽ちていた。最終的には切断すると思われるが、そこにわいているうじ虫を一匹ずつ取っていき地道に消毒されていた。治療の痛みで暴れるのでスタッフから押さえつけなられながら甲高い声でうめき声をあげていた。その光景は今でも脳裏に焼きついている。
中には元気になって衣類と50ルピーだけを持って明るい表情で退院していった人たちもいたのだが、一日にだいたい二人くらいの人が亡くなっていたように思われる。原因は定かではないが、五日ぶりに訪れたときは患者さんらの顔ぶれが結構変わっていたのを覚えている。ご遺体は救急車で共同墓地に運ばれていた。人の死を何度も目の当たりにし、こんなに身近に感じたのは初めてだった。ある程度衰弱していたように見えた男性が下痢をしたその一時間後に息を引き取った。すぐ死んでしまうほどまでは弱っているように見えなかった。その姿を見て生と死の境界線は曖昧なものだと感じた。
大学に入ってすぐ一度だけ在宅医療を受けておられるお年寄りの方々へのボランティアをしたことがある。ご自宅まで迎えにいき、ある広場まで送ってからそこで作業療法士の方を中心に遊びながら体を動かすなどした。そのときは何となくやらされている感じがして、心から素直に動けなかった。そのような感情を抱いたのが嫌で、自分には向いていないのではないかと思い、それ以来ボランティアはしていなかった。今回は純粋な好奇心からこの活動に参加したのだが、三年前に思ったことを変えたいという考えもあった。九日間自分なりに一生懸命ボランティアをする中で、以前抱いたような思いは一度も感じなかったし、ボランティアは相手にだけでなく自分にとっても非常に良いことである、とも素直に思えた。そう思えただけでも私には大きな収穫となった。新鮮なことだらけで大変な仕事も楽しめたこと、それに日本からだけでなく世界中から来ている様々な魅力的な人たちと仕事中や休憩時間などに話していい刺激を受けたことなどもその要因といえるだろう。
ある日本人の方から「ボランティアは愛のやりとりの練習、愛すること愛されることの練習」という話を聞いた。正にその通りだと私も思った。病人の方々の中には今まで人間らしい扱いを受けていない人たちもおり、カーリガートにいる間シスターやボランティアから愛をもって接され治療を受けられる。自分はこの世の中に必要の無い人間だと思い込んでいた人も、大切に扱われることで自分は愛されていると感じ、自分自身の存在価値を見出すことができてから死にいく人もたくさんいただろう。
また同時に患者さんたちに奉仕する立場の人も癒されている。ボランティアの人たちもここに至る経緯やバックグラウンドは人それぞれだろうが、自分たちが生活している国では様々な問題や悩みを抱えたり、中には強い孤独感に苛まれている人もいるだろう。そのような人たちも自分が患者さんたちや子供たちから一途に必要とされていると感じることで精神的に救われていると思う。マザーやシスターが言われるには飢えや病などに苦しんでいる人たちすべてを受難のキリストの姿、神の姿だという。敬虔なクリスチャンではない私の目にはそのような姿には映らないが、まっすぐ優しく接することができたし、愛おしく思える瞬間は幾度もあった。
少なからずこの旅で自分は視野や考え方が広がり、成長できたと私は思う。
2年 吉川 智子
今までのインド班と私たちがちょっと違ったのは、メンバーの中に女の子がいたということだ。死を待つ人の家は、女性の患者さんは女性、男性の患者さんは男性が受け持つことになっている。今回、女性の患者さんと時間を共にする機会を得られたので、少し報告したいと思う。
ベッドは50床あり、いつもほぼ満床だった。40〜60代の人が多いように見受けられたが、数名の10代の少女も入所していた。私たちが滞在した約二週間の中で、数名がいつの間にやら姿を消し、一人が入ってきた。病名としては、結核・伝染性の皮膚病・B型肝炎・エイズなどが挙げられる。他には、いつも何かに怯えて泣きそうな顔をしているおばあさん、こちらの理解はおかまいなしに、ヒンディー語で楽しそうにしゃべり続ける少女など、精神を病んでいるような患者さんもいた。一番衝撃的だったのは、火傷のためだろうか、下唇が首の皮膚と癒着してしまい、下の歯と歯茎がむき出しになっていた患者さんだ。大抵のことは自分でできていたが、水を飲んだり食事をしたりするのがとても大変そうだった。なんとも傷が痛々しく、いつも下を向き、頭を抱えてうろうろ歩き回っていた。そんな彼女のベッドは、私たちが去る三日ほど前に空になった。様々な患者さんがいたが、全体的に見れば、病状は男性と比べたら軽症だといえる。歩くことのできる患者さんが多く、自分のベッドから離れて集まりおしゃべりしている光景をよく目にした。食欲もかなり旺盛で、どっさりとカレーをおかわりする患者さんが多くて驚いた。しかし、そこには何ともいえぬ、ずっしりと心にのしかかってくる空気があり、初めて足を踏み入れた瞬間、自分をしっかりもっていないと押しつぶされる、と身震いした。
仕事の内容は男性の場合と同じだ。食事の配膳・下膳、食器洗い、洗濯、薬配布、入浴介助が主で、それが終われば残りの時間は患者さんとのコミュニケーションをとる時間になる。
しかし、ここで私の大誤算が生じた。英語が全く通じなかったのだ。よくよく考えてみれば、このような場所に入っている人々が十分な教育を受けてきたとは思い難いのだが、それにしても「言葉」という手段を奪われた衝撃は大きかった。何をどこまでしていいのか分からず、患者さんの要求が読み取れなくて戸惑い、一つ一つの行動が恐る恐るだった。無力感―それが、私がここで初めて味わった感情だった。「何かをしてあげる」なんて気持ちではおこがましい。とんでもない、中途半端な心構えでは周りに迷惑をかけるばかりだ。自分の判断力・決断力の無さが情けなくなった。でも、一つだけ嬉しかったことがあった。その日の最後に、吊っている腕をマッサージしてほしいと身振りで伝えてきた患者さんが、私のマッサージで、微笑みながらうとうと眠ってしまいそうになったのだ。触れることがこんなに安心感を与えられるんだと思い、自分にもできることがあるというささやかな自信になった。
次の日には、「どっちみち英語が通じないなら、日本語で話してもいっしょ!そっちの方が心は伝わるはず!」と思い直し、自分を伝えて相手に心を開いてもらいたいという一心で、私が日本でどういう生活をしているか、今までで何が一番嬉しくて、悲しかったか、大切な人たちをどれだけかけがえなく思っているか、自分にとって愛とはどういうものなのかなど、私の生の心をできる限り忠実に表現する言葉を捜して語りかけた。また、音楽は世界共通かもしれないと思い、賛美歌や好きな歌も歌ってみた。昔覚えた主の祈りを唱えもした。もちろん言葉は理解されていないだろうが、これが私なりの自己表現だった。正しいかどうかは分からないが、こうすることで時には患者さんの笑顔を見ることもできた。それが私の最大の支えになった。
そんな風にして、あっという間に日々は過ぎた。コルカタを去る前日、私はある患者さんに呼び止められた。彼女は無言で櫛とゴムを差し出した。彼女の髪は腰に届くほど長い。そうか、結んでほしいんだ!と思い、喜んで引き受けた。長くて絡まり気味の髪を、相手が痛くないように梳かすのはかなり緊張した。彼女が私の手に、お香のような匂いのするひんやりした油のようなものを注いだので、それを髪全体になじませて毛先から少しずつ梳かしていき、三つ編みにした。いつのまにか30分近くが過ぎていた。「時間かかってごめんなさい、これでいい?」渡されたオレンジ色のゴムで毛先を結んで見せると、その髪を手にとって眺め、首をちょこっと横にかしげるインド式の「はい/Good」で応え、初めて笑いかけてくれた。この瞬間、私は患者さんの要求にやっと満足に応えられたと感じた。飛び上がりたいくらい嬉しかった。次の日も、彼女は私を呼び止めた。これが最後の仕事だと、精一杯心を込めて彼女の髪を梳かし、結びあげた。三つ編みが写るように前に垂らして一緒に写真を撮った時の、組んだ肩の細さ、手の温もり、全部私の体にしみこんでいる。一生忘れない。
私がインドに惹かれだしたのは、高校の時の朝礼で理事長先生からマザーテレサの話を聞いてからだ。私の通っていた学校はキリスト教を信仰しており、毎朝主の祈りを唱え、宗教の授業では聖書にも触れていた。普段から慕っていた理事長先生からマザーの話を聞き、私の知らない所でそんなにも強い信念を持って活動してきた人がいたのだと、胸が締め付けられるような熱い想いがこみ上げたのを今でも覚えている。その時からなんとなく、インドと聞くと心惹かれるようになり、機会があれば行ってみたいと思うようになった。
今回何年かごしにその夢が実現することになり、インドに行く前にもう一度自分の気持ちを整理してみた。私はまだ、「死」というものをほとんど経験していない。しかし、私の目指す医師は常に「死」と隣り合わせにある。「死」の瞬間に立ち会えることは、非常に貴重なことであり、同時に大きな責任も伴う。そのような医師を志す者としての自覚は、私にしっかり芽生えているのだろうか?今の時期にボランティアの経験をすることで、将来の自分に必要な自覚を体得したいというのが、行く前の抱負だった。今回は幸いにも「死」には立ち会わなかったが、「この人が明日はいないかもしれない」と考えると、その人と過ごす瞬間瞬間が果てしなく大切に思えた。
そうして実際に死を待つ人の家で過ごして思ったこと―ボランティアって、何なんだろう?私がここの患者さんの立場だったら、と自分に問いかけてみた。一番悲しいことは、自分がいなくなっても誰も気にしないこと、忘れられてしまうこと。一番求めるものは、誰かが自分に向き合ってくれる時間、その人の存在、温もり。自分が独りでないこと、ここにいることを証明してくれる誰かがいてほしい。さらに、その人を目で見るだけでなく、触れ合って温かさを感じることで心から安心できる。「ボランティア」というと、何だか特別な仰々しいもののような気がするが、突き詰めていけばそれは「今、目の前にいる一人の人と向き合うこと、時間を共有すること」になるのではないか。「あの時あの人と一緒にいて、こういう話をした」という事実が、「自分は独りではない」という自信につながると思う。これは、”The poorest of the poor”、死を待つ人の家にいる患者さんが最も必要としているものではないだろうか。だから、その時間に精一杯、自分にできることを必死で考え、相手の心に近づくよう努力する。結果として生まれた「経験」は、その人とでしか作りえないものだ。そういう機会を与えてくれた相手に感謝し、その人が生きていたことを証明するために自分の心の中に残しておく。何の変哲も無い毎日の中で、自分のことを「今何してるかな、元気にしてるかな」とどこかで考えてくれている人がいるだけで、胸がほわっと温かくなり、人生は彩られ、輝き始める。そういうささやかな、しかし不可欠な幸せを、私も人に与えたい。
最後に、MOCで働く日本人のシスター(Sr. Christy)から伺った話を紹介したいと思う。
マザーは生前、各国から各自何らかの犠牲を払って、地味な仕事を喜んでしに来るボランティアに非常に感謝されていた。そして、「自分の国の町の中、家庭の中でコルカタを見つけ、そこにあなたたち自身が神の愛を運んで下さい」とおっしゃっていた。先進国には物質的な貧しさではなく、精神的な貧しさをマザーは見出していた。寂しさや孤独に苛まれ、誰にも必要とされていないと感じている人々に効くのは、愛しかない。大きなことはできないが、大切なのは「小さなことに大きな愛を込めること」 そして、とにかく「祈る」こと。
マザーハウスにはマザーが眠っている。その部屋には、マザーの生前の記事や写真などが飾られていた。一つ一つ目を通していき、‘Mother’s Final Travel’―即ち、天への旅立ち―という記事に行き着いた。読んでいくうちに、マザーは最後の最後まで、あの無限大の愛を持っていたのだなあと思い、安らかな死に顔、別れを惜しむ数え切れないくらい多くの人々の姿を見ていくうちに、ふっと、あの高校の時に味わった、胸が締め付けられるような熱い想いが堰を切って流れ込んできた。その表現しきれない想いはとどまる所を知らず、涙という形で姿を現した。気付いたら私は、彼女のお墓の横に膝まづき、必死に祈っていた。「私にあなたのような強さをください。何があっても自分の信念を貫き通せる強さをください」 肝心なところで自分を甘やかしてしまう自分に、私は全く自信が持てない。そのせいか、自分の考えを主張しているつもりが、最後には尻すぼみで曖昧に終わってしまう。一回で全てを伝えきれないのがはがゆくてたまらない。これを克服するにはどうすればいいだろうと旅の間中悩んだ結果、とにかく諦めずにぶつかるしかないと気づいた。効率は悪いかもしれないし不器用だが、諦めなければ少なくとも何か変わるきっかけは作れるかもしれない。マザーの活動も、このような希望が支えてきたのではないかと思う。今回の旅を通して自分ととことん向き合ったことが、その第一歩となった。二歩目も三歩目も、目標に達成するまで踏み出していこうと思う。
1年 河原 隆浩
1998年にMother Teresaにより設立されたこの施設は、マザーハウスからマニカラという所までバスで約20分、さらに徒歩で約10分のところにある、インドにしては珍しく新しい建物だった。この建物は3階建てであり、インド人医学生(5年生)の話によると、1階には20人の孤児、3階には35人の障害をもつ子供が元気に暮らしているということだ。また2階にはシスター達の部屋、ミサを行う教会などがある。そして、屋上は洗濯物を干す場所として利用されている。建物の中は子供たちが安全に暮らせるように、容易には外に出られないように重い扉で作り、階段などで転落しないように網で張り巡らされてある。私は、5日間、3階の障害のある子供たちの所でボランティア活動をした。その具体的な内容は後述する。子供たちは3歳から15歳ぐらいまでがいて、障害の軽い子はローマ字を書くことができるほどだ。一方、障害の重い子供は常に寝たきり状態のままと様々である。そこで、この施設は障害の程度の差により2段階に分けてお世話をしていた。exercise roomとeducational roomに分け前者は子供の主に硬直したからだをほぐす作業を行い、後者は音楽と伴に歌を歌い、絵本を読んであげたりする。この施設で12年間働いている渋谷律子さんの話によるとほとんどの子供の親はどこにいるか分からないそうだ。そして、養子としてもらわれていく子供は年に2,3人ぐらいだという。やはり、自分より長生きするのに、障害のある子供は連れてこられないと考えるという。ここの子供たちが大きくなるとまた他の施設に移されて行くという。子供と接するにあたり、大変役に立つのが子供ひとりひとりの日本語版プロフィールである。そこには、顔写真入りで名前、年齢、性格、障害の程度、おむつの有無、喜ぶことなどが事細かに書かれている。他にも英語版、中国語版、スペイン語版、フランス語版などがある。ボランティアを迎え入れる体制まで整っていることには正直驚いた。
ダイヤ ダンの朝は早い。午前8時前に、ダイヤ ダンに着いたときには子供たちは朝食を終えている。私はボランティア用の部屋にある備え付けのエプロンを身につけ、入浴の手伝いが始まる。トイレで糞便をしている20人もの子供たちを、お風呂場まで連れてくる。その臭いは強烈。慣れるまでにかなり苦労した。小さな子供でも、動き回られると簡単には抱きかかえられない。子供を落とさないように、慎重に運ぶ。子供の体はベテランの方が洗うので次に、子供たちに服をきせてあげる。これが意外に難しい。子供の関節が、硬化しているためだ。これまた慎重に着せる。そして、子供たちを専用の席に連れて行く。名前が分からないので、シスターに聞く。子供たちを運び終えると、1対1について、遊んであげる。歌を歌い、喜ばせる。また、腕や膝を折り曲げたり、伸ばしたりする。なかには、漏らしてしまう子供もいるので、きれいに拭いてあげる。これと同時に、子供たちの衣服を全部手洗いし(正確には足洗い)屋上に干す。早くも10時半にさしかかる。ここで、私たちは30分間の休憩に入る。チャイとビスケットが出される。ここで、外国人と色々話してみたが、英語がうまく話せない自分がもどかしかった。このとき、日本に帰ったら英語を真面目に勉強しようと思った。日本人の方と、インドについて色々話し、いろんな考え方に触れることができたのはとても有意義だった。11時から、昼食の時間になる。子供たちが食べやすいように、カレーとご飯をミキサーでかき混ぜてドロドロにする。そして、子供たちに食べさせるわけだが、これも、難しい。顎の奥を親指と人差し指で優しく押さえると、口が自然と開く。そして、スプーンをかなり奥のほうまでいれると、うまくいく。少しずつ、少しずつ食べさせる。喉にモノがつまらないか心配だった。約1時間かかるけど全部食べてくれたときは、本当に嬉しい。昼食が終わると、午前の仕事は終了する。やはり、緊張の糸が切れるのかどっと疲れが出る。午後は、2時から始まる。主に、洗濯物をたたむこと、子供たちと遊んであげることぐらいで結構ゆっくり時間は流れる。
私が、初めて障害をもつ子供たちを目の当たりにしたとき、子供たちがとてもかわいそうで、哀れに見えてしょうがなかった。「この子供たちは何のために生きているのだろう?」「子供たちのために自分は何をしてあげられるだろうか?」そんな気持ちでいっぱいだった。ダイヤダンでのわずか5日間では明確な答えを出すことはできなかったというのが正直な思いである。本当にわけが分からなくなった。5日間のボランティア活動はとにかく必死だった。ただ、自分の心の中にはある大きな気持ちの変化、考え方の変化があった。マザーハウスにいらっしゃったシスターの方は次のようにおっしやっていた。「この世の中で最も不幸なことは、誰からも関心をもたれずに生きていくことである。そして、その精神的な貧しさを絶つのに効く薬は愛情である。ボランティア活動は、地味な仕事である。それは、大きなことはしていないからだ。しかし、大切なことは、自分がしている小さなことに大きな愛情を持って接していくことである。」この言葉の意味を実際の経験をふまえて理解できたからである。私が世話をした子供は、その日偶然に出会った子供である。その子供と一緒に遊ぶ、ご飯をあげる、マッサージをする。これらの行為に愛情を持って接してあげる。すると、ある子供は、笑顔で返してくれる、またある子供は、泣き止んでくれる、気持ちよさそうに眠ってしまう子供もいる。これは、私から目の前にいる子供たちに向けた愛情のベクトルに子供たちは反応し、その子供は私に愛情の逆ベクトルを向けてくれているのである。その瞬間こそ、私はその子供の人生に、“関って”いるんだと思えたときだった。そして、その子供は、精神的な貧しさを絶つことができたのである。その子供は間違いなく、幸せに生きているということを実感した。なんだか子供たちのことを、哀れな存在であると見てきた自分が恥ずかしくなった。本当に申し訳ないと思った。私は、逆に子供から愛情をもって接することの重要性を教えてもらったのだ。私が、“関った”子供は10人ぐらいなのかもしれない。そう考えると、私はたいしたことはしていないかもしれない。インドには、“関られて”いない人が沢山いるからである。しかし、マザーテレサの設立した施設には毎日沢山の人がやってきている。その人それぞれが自国に戻り、周りの人に愛情を持って接するようになる。そうすると、私はふと、ひとり、ひとりの人間のしていることは些細なことかも知れないが大勢が集まるといつの日か世界中の人々が“関って”いる状態になる日がやってくるかもしれないと思わずにはいられなくなる。このように、考えてみると、マザーテレサがこのような場を創ったことがいかに偉大なことであるかがわかってくる。私もマザーテレサと同じ場所に立てたことを誇りに思う。そして、今日もまた、“関られて”いないひとが減り、愛情を持って接することの素晴らしさを認識しているひとが確実に増えているのである。
インドでの3週間はあっという間だった。海外に行ったこともない自分がいきなりインドに行けるのか不安な気持ちも多少はあった。確かに、インドでの生活はカルチャーショックの連続だった。日本で平和に暮らしている自分にとってとてもいい刺激になった。何度もインド人に騙されそうになった。(騙されているのかもしれない)もちろん、お腹もこわした。大変なことも沢山あった。けれど、自分の考え方が幅広くなった。いい社会勉強になった。本当にインドに来てよかったと思っている。最後に1年の私に、色々とアドバイスやお世話していただいた先輩方に厚く感謝します。
4年 小野 宏彰
コルカタには溢れんばかりに人がいる。人口1300万とも言われるこの町では様々な人間を日本より間近に感じる。単純に人が多いのか、生活圏の路上を占める割合が大きいのか、それとも私が外国人だからなのかもしれない。コルカタと他都市とを結ぶ、ハウラー駅。光には影があるように、駅にはスラムがある。スラムと言うとどうも掘っ立て小屋に乞食の様に暮らしているイメージがあったが、ここでは貧しい人たちが旧市街に密集して生活しているようだった。細い路地をいくつも曲がり、ちょっと見過ごしてしまいそうな二階建ての建物がハウラーシシュババンであった。
Shishuとは子供、Bhavanは家のことである。シシュババンは、孤児や貧しい家庭の子どもたちのための家である。とてもこじんまりした施設だが、学校としての顔と孤児院としての顔がある。一階ではスラムの子どもを集めて、読み書き(ベンガル語・英語)や簡単な計算を教えている。そして、二階の孤児院では0歳〜10歳くらいの子供が15人程生活している。ハウラー駅や道端で捨てられた子供たちをシスターが連れてきたり、貧しくて育てられない家庭から直接施設に連れてこられたりして集まった子供たちだ。
私はこの施設に5日間ボランティアとして関わった。1階の学校で4日、2階の孤児院で1日である。1階では子供達に文字を教える教師として、2階では孤児達の遊び相手として手伝いをさせてもらった。今回は1階の学校でボランティアした感想を中心に報告しようと思う。
1階には、小学校の教室2つ分くらいの大きさのくの字型の広間があり、黒板が3つ点在していた。生徒たちはおよそ100人で、3つのクラスに分けてある。4〜6歳の幼稚園クラスと、7〜8歳のクラスT、9〜10歳のクラスUの3つのクラスがあり、それぞれの黒板の前で固まって座り授業を受けていた。授業、と言っても特にカリキュラムなどがあるわけではないようだった。英語・ヒンドゥー語の読み書き、簡単な計算が出来るまで、基本をやり続ける。私たちボランティアは一番下の幼稚園クラスの教師役をまかされた。
ボランティア(初日は私とイタリア人の高校生の二人だけだった)は、子供たち40〜50人相手にアルファベットと数字の読み書きの練習をさせたり、粘土やお絵かきや歌で遊んだりするのだが、突然インドのスラムスクールで教師をやってくれと言われても最初は何をしていいかわからず言われるがままうろうろするだけだった。授業形式としてはまず、黒板にAからZと1から50までの数字を書き、それを子供たちが自分のノートや小さな黒板に書き写す。そしてボランティアが進み具合を見たり、質問を受けたりするというものである。黙々と書き続ける子、書けなくて困っている子、書いて自慢げに見せにくる子、書いてなくても自慢げに見せる子、遊び続ける子、おとなしい子、けんかする子、まとまりのない子供たちに振り回されっぱなしであった。手はかかるが、インドの子供はかわいい。目はぱっちりと大きく、鼻筋は通っていてほりが深い。インド人の大人を見ているとどうしてこんな愛くるしい子たちが・・と思ってしまう。
いくつか問題があった。ひとつは言葉の壁である。子供たちは英語がしゃべれない、だから教えようにも身振り手振りでしか教えられないのだ。アルファベットや数字を書ける子は多いのだが、ただ羅列できるだけでその文字がどういう意味かわかっていない子がほとんどだ。どういう事かと言うと、ABC…と書くことはできても、Fを‘E’と読んだりするのだ。文字には意味があるんだよと、説明をしたくとも言葉が通じないのが歯がゆかった。
また、ボランティアとして教師役をするのにマニュアル、カリキュラムといったものがない。つまり、子供たちがどのような教育を受けられるのかはその日来たボランティアに左右されるのだ。さらに、カリキュラムがないために子供たちは系統立てて授業を受けることができない。実際私が来る1週間前から来ているボランティアによると、毎日書き取りをさせているだけで、Stupidだと言っていた。私も最初は、教育という面でとても効率が悪いと感じた。毎日書き取りをさせているだけで、教えようにも言葉が通じず、一貫した授業はできない。これでは子供たちはなかなか成長しないだろうと思い、無駄が多いように感じていた。
三日目から少し雰囲気が変わりだした。それまで2人でやっていたボランティアが8人になった。やる気に満ち溢れたスペイン人とイタリア人達は、授業もクラスをさらに少人数にわけて、書き取りだけでなく意味や単語を理解するために絵を書いて教えたり、歌や踊りを取り入れたりしだした。雰囲気はいっきに幼稚園のようになり、皆で歌に合わせて踊りだした時は、この子たちもこんなにまとまるのだと自分の無力さを悔しくも感じた。四日目、バナナ、マンゴー、ポテトなどを実際持ってきて、言葉とそれの持つ意味を分りやすく教えだした。子供たちは身を乗り出して私たちの話を聞いていた(ただ単に果物を狙っていたのかもしれないが)。その急激な変化に、私はある事を考えた。もし、システムやマニュアルがあったならば、ここまで変わる事があるだろうか、と。試行錯誤し、相手を想い、工夫を凝らす余地もないほど、そうする必要がないほど構築されたシステムの中では、私たちは相手を想い関わることよりもシステムと同化することを優先させてしまうのではないだろうか。
マザーは一人一人に愛を持って接しなさいとおっしゃっていました。しかし私はこのボランティアを始めた時、子供の早い成長、高い学習レベルを期待していて、システムや効率のことを考え、無駄が多いと感じていた。しかし大事なのが愛ならば、個々の顔の見られなくなりがちなシステムより、無駄(意味ある無駄)のある関わり方がよいのではないだろうか。無駄は削るべきなのか、進歩はしなくてはいけないのか、そう考えた時に全てを効率と進歩で考える必要、そんな価値観が全てではないと気付かされた。マザーの施設をいくつか見させて頂いて、効率や効果や成果だけで判断すると腑に落ちなかったやり方がいくつかあった。この学校のシステムもそうであるし、カーリガートに洗濯機などの文明の利器を導入しないのもそうだ(貧しい人の事を理解するには自分も同じ立場に立つべきという考えから)。しかし、モノを見る際に一度愛情という視点、ものさしを加えると納得できる。むしろそうあるべきだと思った。愛情を、過程を大事にするということは、もちろん結果を出せない言い訳にしてはならない。しかし、それのない判断基準は何か大事なものを失っているよう感じる。私たちは無意識に自分の基準で評価をしている。それを意識した時、そこに愛はあるでしょうか。
4年 宮原 麗子
Shishu BavanはMother Teresa が最初に設立した施設の1つである。ここは、子供のための施設で親から捨てられた多くの子供が生活している。道で保護された子供もいれば、病院から連れてこられた子供もいる。親が直接Shishu Bavanに子供を置いて行く場合もあるそうだ。0歳の乳児から6歳ぐらいの子供が施設で過ごすが、その後は別の施設に移るか、または養子となる。インド国内だけでなく、海外特にヨーロッパへ養子として受け入れられていく子供が多いようだ。
Shishu Bavanの特徴のひとつとして、障害のある子供を受け入れているということがある。インドには40を超える子供のための施設があるそうだが、障害のある子供を受け入れている施設は少なく、Shishu Bavanはどんな理由のある子供でも受け入れる数少ない施設のひとつであった。障害の程度は、体を全く自由に動かせない重度の麻痺がある子供から耳や目が不自由な子供、知能の発達が遅れている子供と様々である。今回は障害のある子供が生活している部屋でボランティアをしてきたのでその体験について以下に記したい。
ボランティアの仕事は8時半に始まる。ボランティアが集まる時間になると、笑顔いっぱいの子供たちが私たちに走りよってきた。「アンティ(お姉さん)、アンティ」と言って両手を広げ、私たちに「遊んで」とせがんでくる。子供たちは全部で20人ほど。そのうち重症で寝たきりの子は10人ぐらいで残りの子は自由に動き回れた。1つの大きな部屋には子供が落ちないようにと柵がついたベッドが人数分置かれていた。その横に自由に遊べるスペースがあり、子供の椅子や遊び道具があった。働いている人は女性だけである。ボランティアも女性限定であった。シスター、ボランティアの他にShishu Bavanではインド人の女性が多く働いていた。このインド人の女性たちはボランティアではなく賃金をもらって働いており、人数の少ないシスターに代わって、子供の食事を作ったり、お風呂に入れたり、ボランティアに仕事の指示をしたり、主になって子供の世話をしていた。
ボランティアの仕事は@子供と遊ぶこと A食事の介助 Bマッサージ 他に曜日ごとに決められた洗濯や掃除(床拭き)などの仕事があった。@子供と遊ぶこと:部屋では英語のテープがずっと流されていたので、テープの音楽に合わせて、歌ったり踊ったり、また、ボールを使って遊んだりもした。いろいろな国からボランティアが集まってきているので、その国独自の童謡を振り付けに合わせて歌ったのはいい思い出だ。A食事の介助:食事はカレー。インド人の生活習慣とは異なり、スプーンを使って食事させるようになっていた。自由に動き回れる子供は基本的に一人で食べさせ、うまく食べられない子供をサポートした。寝たきりの子供には、ボランティアが一人ついて介助した。私も一度食事の介助をしたが、口を大きく開けられない子供に食事をさせるのは大変で、なかなか要領を得ず、大変嫌な思いをさせてしまったのではないかと思う。Bマッサージ:マッサージは特に寝たきりの子供に対して行った。一人一人の症状に合わせて書かれたマッサージのマニュアルがあり、それに沿ってマッサージや手足の曲げ伸ばし運動を行った。マニュアルは写真つきの説明とその回数が書かれた、親切丁寧なもので始めてのボランティアでもわかるようにと配慮がなされていた。
子供たちはボランティアにしがみつき、抱っこされるのが大好きだった。かわいい子供たちの笑顔、仕草は私たちボランティアの心をぎゅっとつかみ、子供たちの求めるままに抱っこしてあげ、子供が一人でできることにもついつい手を出してしまった。インド人の女性はボランティアがそのように子供を甘やかしすぎることを少し嫌がっていた。ボランティアが抱っこするのではなく、子供同士で遊ばせて欲しい、自分でご飯を食べられる子供にはできるだけ一人でご飯を食べさせるようにしてほしい、と彼女たちはよく注意していた。ボランティアの過剰な干渉が、子供の自立を妨げることになるのではと、心配しているようだった。もちろん彼女たちの言い分はもっともだと思うけれど、一度抱きあげると決して離れたがらない子供たちを簡単に離すことはできなかった。子供たちはわがままを言い、甘えられる最も身近な存在であるボランティアに、精一杯愛情を求めているようだった。ただそばにいてあげることの大切さ、ただ抱きしめてあげることの意味を強く感じた。そして、それこそが私たちの大事な役割なのではないかと思った。
今回の旅で、道端で寝ている少年を見た。顔に蝿がたかり、ぴくりとも動かなかった。雨上がりの泥でぐちゃぐちゃになった道のそばで一人、眠っていた。私はただその少年を見ていることしか出来なかった。 もしかしたら死んでいたのかもしれない。日本ではありえない状況を目にし、ショックを受けるとともに何もできない自分の無力さと弱さを痛感した。同時にその子供を気にもとめない周囲の大人たち、その環境を哀しく感じた。これが、この国の日常だった。私は改めて、マザーの働きの意味を考えさせられた。
インドには様々な子供がいる。きちんと制服を着て親に学校まで送り迎えしてもらう子供もいれば、小さな赤ん坊を抱きながらバクシーシを求めて近寄ってくる子供もいる。そんな子供たちの中でも親に捨てられた子供ほど弱い立場のものはいないと思う。Shishu Bavanにはそんな子供たちがたくさんいた。そして街の中にも、家庭の貧困から一人きりになってしまった子供がまだまだたくさんいるのではないかと思う。
この施設は社会の仕組みを根本から変え、すべての弱い立場のこどもに未来を与える役を担うことはないかもしれない。しかし、私はここで20人ぐらいの子供と出会い、短い期間ではあったが子供たちと関わることができた。これからも多くのボランティアが世界中から集まり、数十人の子供と出会い、子供たちを抱きしめ、手をさしのべていくことだろう。その小さなことの積み重ねが一人、道で眠る子供を救い、未来をつくることにつながるのだと私は信じている。
私の足がすくみ少年に手を差し伸べることが出来なかったことは、数あるインドの思い出の中でShishu Bavanでの体験と比較して常に私の頭から離れない。Shishu Bavanにいる子は恵まれている。そこには多くの人の暖かい手があるから。
4年 西田 有毅
「ガンジー・プレム・ナイワス」はMOCのハンセン病患者のための施設である。1958年に設立された(名前に「ガンジー」と冠されているのは、インド社会の中で最も虐げられていた「不可触賤民」であったハンセン病患者を解放することに生涯をかけたマハトマ・ガンジーを讃えたものである)。この施設はコルカタ市内のSiardah駅から列車で40分ほど行ったTitagah駅の近くにある。特徴的なのは、この施設は線路の両側の非常に細長い土地につくられているという事だ。
ハンセン病に感染した人々は、そのことで町に居られなくなり、線路沿いのこの地に移り、病気と貧困と罪の意識の中で暮らしていたという。マザーテレサは当初、コルカタで移動診療車を使ってハンセン病患者の診療にあたっていたが、Titagarからやってくる患者たちの話を聞きつけ、自身も実際にこの土地を訪れ、すぐにここに診療所を開設する事を決断した。そして施設を建設するにあたって多くの肉体労働が必要であったため、この大きな活動を「男子神の愛の宣教者会」にまかせたのだった。
初めは元々この土地に住んでいた普通の地元民からの反発も強く、冷たい眼で見られ、石を投げつけられたりもしたそうである。しかしやがて設立に対する理解が深まってくると、協力者も増え、この地域に受け入れられるようになっていった。現在のこの施設の姿は、マザーの決断と、労働にあたったブラザーと患者たちの努力の結晶なのである。
この施設は250人収容できる病棟(とはいっても平屋の大部屋にベッドが並んでいるだけ)をもっている。その他に450人の元患者たちが施設内の各部門で働いている。患者の治療はボランティアの医師たちが診察を行い、寄付あるいは購入によって手に入れた治療薬を配布することによってなされている。診療科には内科、外科、眼科、歯科、ホメオパシー科(インドの伝統医学に近いもの)などがあった。治療薬はWHOに推奨されているものが使われているし、必要に応じて形成外科的な手術も行われている。また施設内には義足を製作するための工房もあり、義足を必要とする患者ひとりひとりに適したものを、訓練を受けた職人(これも元患者?)が日々つくっている。
プレム・ナイワスの運営は、MOC全体に贈られる寄付から分配された収入以外、全て自給自足によって成り立っている。中でも施設内にある織物工房では、施設内の患者が着る服やシスター用のサリーなどが作られている。それを担うのは治療を終えた元患者たちで、彼らの賃金は寄付金から拠出されている(1日50ルピーとのこと。ちなみにコルカタの市街地で1日に必要な生活費はおおよそ60ルピー)。またこの工房はインド各地や世界中にあるMOCの施設に布地やサリーを供給できるほどの生産力を持っている。シスターたちの白と青のサリーもこの工房で作られたものなのだと知ると、不思議なことに彼女たちがそれを纏う姿が、ますます誇りに満ちたものに見えた。
また食物については、施設内の畑で米などのたくさんの作物が栽培されているし、動物を飼育したり、魚を養殖するための池まである。施設の子どもたちの教育にかかる費用も先の寄付によって賄われている。施設内にも学校があるが、さらに高度の教育を必要とする子どもには、外部の学校に通学させてもいるそうだ。
ここで、MOCの施設のひとつの重要な特徴は、施設で働くスタッフを地元民から雇用することである。ここプレム・ナイワスではそれに加えて元患者たちもそれに与っている。これによって周辺地域に雇用が供給され、住民は多くはないにせよ収入を手にすることができる。インド全土や世界中でMOCの施設が地域住民に広く受け入れられているという話も、こういった理由によるものなのだろう。
ハンセン病の患者と聞くと、後遺症のために手足を切断されていたり、両目を失明して兎眼になったりしている姿を想像するが、施設内の患者は比較的後遺症の軽い人が多かったように思う。それはおそらく発症後にすぐに適切な治療が行えるようになったからなのだろう。失明している方や義足を必要とする方もいたが、少数だった。病棟は症状の程度によっていくつかの部屋に分かれており、それぞれ50くらいのベッドがある。私たちが部屋の中に入ると、訪問者たちだと知って和やかな笑顔で「ナマステー」と声をかけてきてくれた。言葉は通じ合えないものの、「よく来てくれた」と歓迎されているのがすぐに伝わってきて、素直に嬉しかった。患者たちが包帯を交換するドレッシングルームにも入ることができたが、彼らはナースのいない日には自分たちで必要な分だけ包帯を交換している。
織物工房では元患者たちが熱心に仕事をしていた。患者さんたちと同様笑顔で迎えられたし、「写真を撮ってもいいでしょうか」と尋ねると、「もちろんだ」と言わんばかりにうなずいてくれた。ここ織物工房だけでなく、施設内の畑や義足製作所など至るところで、熱心に、そして楽しそうに働いている人々の姿があった。後日、日本人のシスターとお話をする機会に恵まれたときにプレム・ナイワスの話も出た。そのときシスターは彼らの働きぶりに、「毎日とても誇りを持って仕事をしています。あなたも彼らの誇りに満ちた姿を見たことでしょう」と語っていた。
私は昨夏、日本のハンセン病施設のひとつである国立療養所大島青松園(香川県)を訪問した。(報告書はこちら)この活動をきっかけにして日本におけるハンセン病患者たちのあゆみについて知ることができたのでその体験を元に日本とインドのハンセン病患者の、そして青松園とプレム・ナイワスの共通点や相違点について考察を試みた。
ハンセン病患者が社会的に差別されてきた歴史があるのは日本もインドも同じである。そして業病(God Punishment)や遺伝病という考え方があったのも全く同じだった。それに加えてインドでは宗教的に別格扱いされている。死後ガンジス河のほとりで火葬され、その灰を流されることはヒンドゥー教徒の死後の願いとして知られた事実だが、ハンセン病患者は火葬が許されていない。かの有名なカースト制度の中でも、彼らは不可触賤民としてカーストの外におかれていた。日本においてもインドにおいても、ハンセン病患者たちは長い歴史の中で社会的に隔絶された存在だったのである。
施設に注目してみると、両者とも町から外れた場所にあるという点は共通であった。施設内の雰囲気は平穏であり、ゆっくりとした時間が流れている。所内の人々の生活もいたって静かで、プレム・ナイワスでは患者たちは日々をゆっくりと過ごし、また生きがいを持って労働に勤しんでいる。日本の療養所では生きがいをもたらすものとして、入所者たちは文学や音楽を選び、そのレベルは決して趣味程度のものではない。
もっとも異なる点は、慣習的な差別があったことに加えて、日本では法律により患者の扱いについて規定したことだ。青松園を含む日本のハンセン病施設は国の政策によって建てられた。患者を療養所に送ることは、戦前・戦後を通じて官民一体となった運動であった。これに対してプレム・ナイワスは、先ほども述べたとおりマザーとブラザーたち、そして患者たち自身がつくりあげたものである。施設に対する患者たちの思いは、この経緯を考えるとおのずと理解できる。日本の患者たちにとって療養所とは、元々彼らが暮らしていた場所ではない。彼らは故郷から引き離され、自分たちを言うなれば「根無し草」のように感じているところもあるだろう。また所長に徴束権があった時代は、施設内に監獄のような場所もあり、所長の意向によっては犯罪者のように患者を扱うこともあった。しかし、彼らは療養所で生きていくしかなかった。療養所は彼らの家であると同時に彼らを強力に縛り付ける牢獄のような場所だった。それへの思いは複雑なものであるはずだ。一方プレム・ナイワスの患者たちにとって施設とは、「MOCの力を借りて自分たちの手でつくり上げた場所」なのであり、入院している間は「ここが自分の家」である。また退院後は「働く場所」に変わる。プレム・ナイワスでは、虐げれられた後にマザーによる救いがあり、患者たちはそれによって平安を得ることができたが、日本では社会で疎外された後、所内でも虐げられてきた。このように書いてくると、日本の方が悲惨な歴史を持っているように思われる。実際、悲劇はハンセン病患者を忌み嫌う国民感情に、患者を追い払う「制度」というお墨付きを付加したことによって生まれたと言っていい。しかもそれは90年以上も続いたのである。しかし、では日本の患者の方がより不幸だと決めてしまうこともできない。両国の一般市民の社会経済状態を比べてみると天と地ほどの開きがあり、人権思想というのも明らかに日本のほうが高い。これを考えると、日本の療養所の人々は団結し、解放を求めて闘うための素地があった。一般社会に働きかけるだけの要素があった。インドの人々は概して貧しい。その貧しさを、MOCは患者たちに愛をもって接し、宗教的に昇華させるように外部から来た者には見える。そこには一般社会の意識に直接的に働きかける作用はない。というより、元々そういうことを狙いにしていない(projectではない)。この問題に関して理想を言えば、ハンセン病患者(元患者)が一般社会の中に受け入れられることだと私は思うが、それは両国とも実現してはいないし、差別も根強く残っている。特に日本では、入所者の高齢化とその数の減少から考えて今後それが実現することはないだろう。インドでも、見た限りこれ以上の向上は見られないのではないだろうか。であるとすれば、私が今気付いておかなくてはならないことは何だろうか。最後にそれを述べて終わりとしたい。
ハンセン病の治療が確立されたことは、医学の進歩が社会通念を大きく変えた事例の中で最も大きいもののひとつだと私は思っている。それまで天罰とか業病とか言われていた不治の病が、適切な治療によって治癒するようになった。これは医学の大きな功績だといえる。しかし、それによって、ハンセン病を患っていた人々に直接的に幸福がもたらされただろうか。そうではないと思う。断っておかなくてはならないが、私は、より有効な治療薬を研究し、実際にハンセン病を治癒する疾患にしてきた医師たち、そして患者たちの身の回りのことを一心に世話してきた人々(インドではブラザーやシスター、日本では看護婦)の長年にわたる努力を否定するわけではない。そういった人々の存在なくして、現在の状況はありえない。それとは別の問題として、日本では、有効な治療薬が発見されてかららい予防法が廃止されるまで50年以上もかかり、その間患者たちの境遇を変えていったのは彼ら自身の長い苦闘によるものだった。インドでも患者たちを救ったのは、治療薬そのものではなくマザーの決断に端を発した一連の活動だった。そして何よりも、病気に伴う想像を絶する身体的苦痛、精神的苦悩を乗り越え、生きがいを持ち、現在の平穏な生活まで漕ぎつけることができたのは、ひとえに患者たち自身の忍耐によるものだということを決して忘れてはならない。
医学それ自体は人々に幸福をもたらす直接的な要因ではない。医学の目の前には常に苦しみに耐える人々がいることを、ハンセン病患者(元患者)の存在が教えてくれる。今回の活動で印象に残ったマザーの言葉の中に、「国に帰ったら今度は、あなたの国、町、家庭の中のコルカタを見つけて下さい」というものがある。ここでいう「コルカタ」とは、簡単に言えば「貧しさ」ということなのだと思う。それには経済的な貧しさだけでなく、精神的な貧しさ(例えば孤独や不安といったもの)も含まれている。私は将来、そのような貧しさに多く遭遇するだろう。そのときそれを感受するために、この言葉はとても示唆に富んだものとして再び響くだろう。
最後になりましたが、今回の活動もたくさんの人々に支えられて無事終了することができました。ボランティアを行うにあたって様々なお世話をしていただいたMOCの方々、そしてこの活動班の礎を築いた石川先輩、それを受け継いだ刀根君はじめ去年のインド班にはたくさんのアドバイスをいただきました。この場を借りて感謝いたします。